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 金子みすゞという詩人がおりました。この人は、明治36年に山口県仙崎町(今の長門市)で生まれた人です。金子みすゞは、大正末期に優れた作品を発表し、西条八十に「この感じは、イギリスの詩人クリスティナ・ロゼッティやスティーブンソンと同じだ」とほめられ、「若き童謡詩人の巨星」とまで称賛されながら、26才の若さでこの世を去った人です。

 この金子みすゞが20歳の時に初めて作った詩が「お魚」です。簡潔ですが、非常に学ぶところのある詩ですので、ひとつ味わってみてください。
 たいへん素直な詩です。考えて見れば、本当にそうです。お米は、人の力を借りて育つし、牛も飼育されています。鯉も人間から麩をもらうという、世話を受けています。なのに、海の魚は人間に何の世話にもならないし、何にも迷惑をかけていないのに、私たちに食べられてしまうではありませんか。全く気の毒な話です。

 ですが、この詩にはもっと深い意味があるのです。

 それは《私たちの命というは、そうした犠牲の上に成り立っているのだ》ということなのです。どんな立派な人でも、霞を食べて生きてはいけません。釈尊ですら、断食は3ヶ月が限界だったわけですから、人間は何かを食べなければ生きていけません。

 食べるという行為には、必ずそこに食べられる物があるわけです。それが、肉か魚か野菜かは人によって違いましょうけれども、何かを食べるには違いはありません。鶏にしろ、牛にしろ、豚にしろ、みんな生きているのを殺して食べるわけです。魚だって勿論そうです。ならばベジタリアン(菜食主義者)は犠牲をしいていないかというと、そうではありません。チンゲンサイにしろ、ホウレンソウにしろ、大根にしろ、人参にしろ、みんな根を張って養分を吸い上げて生きているのです。それを、私たちは、もいで食べるわけですから、厳密に言えば、野菜の命を奪っていることになるのです。

 「そんなん言うたら、何も食べられへんやないか!」と言われるでしょうが、その通りです。かといって、何も食べなければ生きていけませんから、何かを食べます。すると、そこに犠牲になるものが生じるわけです。「食べる」という行為には常に犠牲が伴うのです。つまり、《私たちの命は、そうした多くの犠牲の上に成り立っている》のです。

 それなのに、もしも私たちが満腹になるほど食べながら、何にもしないでゴロゴロしていたとしたら、食べられたものの命は「無駄死」ではありませんか。私たちは、《犠牲になったものの命の分も、頑張らなくては!》という気持ちで、毎日を力一杯生きなくてはならないのです。
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