古代ギリシャの哲学者エピクロスは、
「死は、諸々の悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、実は私たちにとって何ものでもないのである。なぜならば、私たちが存する限り、死は現に存せず、死が現に存する時には、もはや私たちは存しないからである。つまり、死は生きている者にも、すでに死した者にも関わりが無い。なぜなら、生きている者のところには死は現に存しないのであり、他方、死んだ者は、もはや存しないからである」
と、言っています。これは要するに、死が訪れるまでは死んではいないわけだし、死んでしまった後には、生きてないんだから死なんてものは無い、というのです。たしかに、形式論的にはその通りなんですが、そう言われても私たちの「死」への不安は、少しも軽減されてはいません。
エピクロスの言うような哲学的論理においては、「死」を点としてしか捉えていません。「死ぬまでは死なない」というのが哲学的論理ですから、この論理では「死」は「生の終わりの点」でしかありません。そう見ると、「死」には実体が無くなります。
たとえば、一本の直線を引き、その真ん中に点を打ちます。その点が「死」です。その点から左が「生前」であり、右が「死後」である、と考えたのが、エピクロスです。ユークリッド幾何学においては、点には位置だけがあり、大きさは無いとされていますから、つまり「死」には実体が無い!、と考えたわけです。
たしかに、これなら理論上は「死ぬまでは死なない」と言えますが、「死」への不安が解消されるわけではありません。
シェイクスピア(1564〜1616)の『ジュリアス・シーザー』の中に
《臆病者は、本当に死ぬまでに幾度も死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない》
という言葉が出てきます。これは、勇者は常に前を見、目的を達すべくひたむきであるため、死を恐れている暇なんぞ無い、ということなのです。失敗を恐れてはなりません。たとえ、何らかの理由で頓挫したとしても、正しい道を歩んできたならば、その労苦は無駄ではないのですから。
いつ、どのようにして死ぬかが、問題ではありません。大切なことは「死」の瞬間までを、どのように生き抜いたかなのです。
幕末の儒学者の佐藤一斎(1772〜1859)の『言志四録』の中に
少くして学べば、すなわち、壮にして為すあり。
壮にして学べば、すなわち、老いて衰えず。
老いて学べば、すなわち、死して朽ちず。
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