大石順教(1888~1968)という尼僧がおられました。
この方は、大阪道頓堀近くの「二葉寿し」の次女として生まれ、幼名をよねと言いました。彼女は生まれて間もなく養女に出され、幼少の頃から山村流に師事し、明治三十二年(1899)に名取となりました。明治三十四年(1901)に大阪堀江の山梅楼の芸妓となって「妻吉」と名乗り、そこの主人の中川萬次郎の養女となりました。
彼女はひたすら舞に精進していましたが、惨劇が起きたのは陰鬱な梅雨の空がようよう白み始めた明治三十八年(1905)六月二十一日未明のことでした。堀江の遊廓山梅楼にて『堀江六人斬り事件』が起こりました。これは養父の萬次郎が内縁の妻に対する邪推から、楼内で突如狂乱し、二階で寝ていた芸妓たちに刀を振るい六人を殺傷したものです。五人は逃げ惑う中を背中から斬られて絶命したのですが、両腕を切断されながらも、一命を取り止めたのが萬次郎の養女の妻吉、後の大石順教尼でした。彼女は他の五人が逃げ惑う中、「これは何かの間違いだ」と逃げなかったというのです。
さらに驚くべきは、裁判の尋問において彼女は「罪の裁きはお上がなさること。私にはお世話になった人を憎んだり恨んだりすることはできません」と、養父への恨み言を口にしなかったばかりか、養父への減刑を嘆願しているのです。そして、五人の芸妓の供養は言うまでもなく、死刑となった養父の遺骨をもらい受け、亡くなるまでその供養を怠りませんでした。
その後、彼女は地方(演奏する側の芸妓)に転向し、長唄・地歌などを披露しつつ、二代目三遊亭金馬の一座に入り、旅の巡業を始めました。五月の中頃、新緑まばゆい仙台のある旅館の部屋の前に古木の梅の木が有り、その枝に小さな鳥籠が吊るされていました。そっと覗いて見ると、一羽のカナリアが巣を温めていました。数日眺めていると、可愛い雛がかえりました。すると、そのカナリアは口移しで雛に餌を与えているではありませんか。
ああ、何ということだろう。このカナリアには羽は有っても手は無いのに、嘴で立派に雛を育てているではないか。私にも両手は無い。でも鳥と同じく口は有る。この光景を目にして以来、彼女は口に絵筆をくわえ、独学で書画に励むようになったのです。この時のカナリアとの出会いで受けた衝撃を、彼女は次のように歌っています。
口に筆 取りて書けよと 親えたる 鳥こそわれの 師にてありけれ
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