赤い山門をくぐると金芽柘植(きんめつげ)の一本道が本道にのび、梢(こずえ)を渡る風の音と小鳥のさえずりのほかは、いたって静寂である。古木と竹林に囲まれた境内は、堂宇(どうう)の配置から、かつて雲水(うんすい)の修行道場として活気に溢れた様子が彷彿(ほうふつ)される。

 この寺は、延徳2年(1490)に尹良親王(ただながしんのう/後醍醐天皇の孫)を開基(かいき)とし、広鑑神応禅師を開山に迎えて臨済宗妙心寺派の修行道場として開創された。全盛期には本堂の西側にあった禅堂(ぜんどう/現存せず)に89名もの雲水がいたこともある。しかし、時の流れとともに修行者が減ったため、江戸時代末期に道場を閉じて、一般寺院となったのである。

 山門・本堂・鐘楼(しょうろう)などは、修理こそしてはあるが、骨組みは開創当初のもので513年の歴史を物語るものである。以前(昭和52年頃まで)は、門前に直径2m余りの老松が一対で聳(そび)え立っていたが、松喰い虫で枯れ、その切り株が現在テーブルとなって本堂にある。

 昔、中瀬村には6ヶ寺あったのだが、江戸時代の天龍川の相次ぐ氾濫で、現在は普賢院とその別院だけが残ったのである。そのため、それまで檀家制度をひいていなかった普賢院が、必要に迫られて門を開いたのである。それゆえ、檀信徒(だんしんと)の数も多く、静岡県西部の臨済宗では最大級である。

 これは伝説だが、太古に天龍川を栃(とち)の木の大木が流れてきて止まったという。その影響で川の流れが東へ曲がり、中瀬村の地面が現われた。そこで流れが固定するのを待って、大木を引き上げ本堂を造営したと伝えられている。このためこの寺の別名を「栃の木寺」と言う。本堂の濡れ縁は栗材をチョウナで削ったもので、513年の風雨に耐えてきたのが窺(うかが)える。

 現在、普賢院は誰にでもよくわかる仏教講座を行なっていることで、地元では有名である。第2土曜の夜には青壮年対象、第4土曜の夜には婦人対象で講座を開いている。その参加者は、軽く100名を越え、増加の一途をたどっている。また、学校や企業の法話会なども多く実行しており、布教活動にはかなり前向きである。

【中日新聞より転載】