京都の四条通りの西の端に松尾大社があり、その西南に鈴虫寺(すずむしでら)があります。この寺は、一年中鈴虫がいることから、鈴虫寺と呼ばれていますが、正式には華厳寺(けごんじ)という臨済宗のお寺です。
この寺の山門の脇に、鞋(わらじ)を履いたお地蔵さんが立っています。普通のお地蔵さんは素足ですが、このお地蔵さんは鞋(わらじ)を履いています。鈴虫寺(華厳寺)の和尚によると、「ここのお地蔵さんは、どんな願い事でもかなえて下さるのじゃ。どんなに遠くでも、出かけていくので鞋(わらじ)を履いていらっしゃるのじゃ。それから、願い事をする時にちゃんと住所を言わなあかんで!。電話番号は言わんでええけど、名前と住所はちゃんと言わな、お地蔵さん迷うてしまわはるでな。
それと願い事は、一人一つやぞ。一人一つというのは、自分のために一つ、彼女のために一つ、親のために一つ、というた具合や。代理でも、かめへん。そやけど、願(がん)かけするんやから、ちゃんと御守り買うて行ってあげなあかんで。当たり前の事やけど、御守りかて一人一つやぞ。自分のために一つ、彼女のために一つ、願かけする人の人数分は、買うて行ったげなあかんで。
そない言うたら、この前『四十五個下さい』いう人が、あってな。わしが、『一ぺんのお参りで、そない欲かいたらあかんで』て言うたら、その人が『うちのクラスの子の分なんですけど』て言うねん。学校の先生やったんや。そこで『ほな、かめへんわ』いうことになってな、買うて行かはったんや」
と、いうことです。
この講釈師(こうしゃくし)顔負けの口上(こうじょう)のおかげで、参拝者のほとんどが家族の分やら、親戚の分やら、友達の分やら買って行くので、一日でものすごい数の御守りが売れることで、有名です。
しかし、ちょっと待って下さい。それぞれが、別の願かけ(家内安全・商売繁盛(はんじょう)・疾病平癒(しっぺいへいゆ)をすればいいのですが、みんなが同じ願い事をしたらどうなるでしょうか?。
たとえば、クラスの全員が「クラスで一番になれますように……」と願ったら、どうでしょうか?。会社でも同じで、みんなが「次の人事異動で、支店長になれますように……」と願ったら、お地蔵さんはどの人から、かなえて差し上げるのでしょうか?。先着順でしょうか?。お賽銭(さいせん)の多い人からでしょうか?。きっと、お地蔵さんは困ってしまいます。
私たちはお参りをする際、とかく「ああして下さい」「こうして下さい」と、願い事をしがちです。自分の願望をかなえてくれるようにと、仏(ほとけ)さまに催促(さいそく)(請求)するわけですから、これを【催促参り(さくそくまいり)】(請求的祈願)と言います。しかし、この【催促参り(さいそくまいり)】(請求的祈願)というのは、正しいお参りの仕方ではありません。それでは、どの様にお参りするのが良いのでしょうか?。
私たちは仏(ほとけ)さまにお参りする時、「今日もおかげさまで元気で(生きて)いられて、ありがとうございます」という感謝の気持ちで、お参りするべきなのです。何かを求めるのではなく、現在の状態を感謝する【お礼参り(おれいまいり)】(領収的感謝)でなくてはなりません。
たとえば、あなたが病気になったとします。その時、あなたが仏(ほとけ)さまに「早く病気を治して下さい」と催促(さいそく)(請求)したとします。しかし、どんな病気であれ、治るには時間がかかります。魔法ではありませんから、即座には治りません。「一日も早く、良くなりたい」と思えば思うほど、焦りはひどくなり、思い通りにならない不満を家族や周囲の人間に向けたならば、相手はたまったものではありません。
【催促参り(さいそくまいり)】(請求的祈願)をしても、その催促の内容をかなえるかどうかの決定権は、仏さまの方にあるのですから、催促した者の思う通りになるかどうかは、わかりません。わからないもの、正確に言うと、わかりようのないものをヤキモキするほど、精神衛生に悪いことはありません。
それよりは、病気であるあなたが「病気になったことによって、肉体も休まり、家族の絆(きずな)も深まって、精神的にリフレッシュできました。仏さま、ありがとうございました」と、感謝の合掌ができたならば、どんなにすばらしいことでしょう。たとえ、現実が自分の望んだ方向と違っていたとしても、それはそれとして素直に受け入れ、感謝の手を合わせることが大切なのです。
目標を持って努力することは大切なことですが、すべてを自分の思い通りにしようと仏さまに「ああしてくれ、こうしてくれ」と催促するのは、単なるエゴイズムです。すべてを仏さまに委(ゆだ)ね、如何(いか)なる事態も「仏さまが、こうした方が良いとされたのだ」と受け入れ、感謝の心で手を合わすことが、お参りの基本なのです。
どんなに科学が発達しても、人間は完全無欠(むけつ)の神・仏にはなれません。弱いものです。しかし、だからといって【催促参り(さいそくまいり)】(請求的祈願)ばかりするのは、煩悩を煽(あお)ることにしかなりません。すべてを仏さまに委(ゆだ)ね、現在の状況を感謝する【お礼参り(おれいまいり)】(領収的感謝)に専心(せんしん)すれば、毎日を豊かな心で過ごせるのです。
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