私たち人間は、どんなに齢を重ねても習わなくてはならないことがあります。しかし、現実には習わなくてならないことを習わず、どうでもいい習わなくていいことを習っている場合が多くあります。聖書の中にも「なくてはならぬことは何であるのか。それはたった一つである」とあります。なくてはならぬもの、それが何かを学ぶ事こそが一大事なのです。
一生かけて習う事とは、一体何でしょうか。
子どもが幼稚園に行き、初めて親以外の多くの人と接するようになります。そうすると中には大声で泣きわめく子どもがいます。泣くことによって、自分の存在を示しているのかもしれません。しかし、次第に慣れていき、活発に遊び、歌を歌うようになります。習ったのです。集団で生きることを。
小学生になると、さすがに泣きわめく子どもは、ほとんどいません。泣きたくなっても泣いてはいけないというブレーキがかけられるようになります。学校という集団の中で、多くのことを学び成長していきます。
中学生になると、大人への第一歩であり難しい年頃になります。小学生とは全く異なる雰囲気の中でクラブ活動等もあり、学び習うことも一際難しくなります。更に高校・大学と進んで勉強する人もいます。これらに共通することは、言うまでもなく知的な学びです。
知的な学びとともに重要なのは、人間自身を学ぶことも大切なのですが、これはなかなか難しいのです。教育の神様と言われたペスタロッチ(1746~1827)は
人の子を教えるに科学をもってせよ しかれば彼の生涯は有用ならん 人の子を育てるに宗教をもってせよ しかれば彼の生涯は幸福ならん
と説いています。
彼は教えるだけでなく、育てることの大切さを示し、この二つが科学と宗教によらなければならないとし、そのどちらも欠けてはならないとしています。
教育が、ただ教えるものだけになってはなりません。教えることが育てるものでなくてはならないのです。現代の教育が問題視されているのは、それが教え育むものでなくなり人間を数値化して差別し、上級の有名校へ進学させる機関となっているからなのです。特に大学は、有名・人気企業へ就職させるためのものになり下がり、それが大学を判断する基準になってしまっています。
しかし、人間として一生を通じて学ばなければならないもの、齢を重ねても学ばなけれならないものがあります。それは私たち誰もが避けられない命の事実についてなのです。
パーリ増支部経(五ー四十九)に
この世においてどんな人にも成し遂げられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには死すべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということ。
世の常の人々は、この避け難いことに突き当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みを抱くことはない。
とあります。避けることのできない事実を見つめ、これを克服する道は、避けられないという事実をしっかりと受容することなのです。
苦しみや不安のない人生はありません。多くの人は、その苦しみや不安をごまかすためにさまざまなものに手を伸ばし、一時的に不安を解消します。しかしながら、不安はまた起こります。すると、お祈りやお祓い等に頼る気持ちが生じます。しかし、物事は根本的解決を図らねば、真の解決にはなりません。もとを絶たねばならないのです。
釈尊は、この苦しみの根本を深く見抜かれたのです。苦しみの根本は人間の執われの心が原因であると示されました。これを【執着】(しゅうじゃく)と言います。若さに執われ、健康に執われ、物質的な豊かさに執われていると、老いた自分、病んでいる自分、貧しい自分を受け止めることはできなくなり、出てくるのは【愚痴】ばかりになります。「若かったら」「健康だったら」「お金持ちだったら」どんなに幸せなことか、と。すべて【愚痴】なのです。
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