古来、中国では、孟子(もうし)が「人間の本性は善である」と唱えた《性善説》と、荀子(じゅんし)の唱えた「人間の本性は悪である」という《性悪説》とが、時代と共に交錯して論じられてきた歴史があります。
荀子によれば、標題の句は<水が、容器によってどんな形にもなるように、民は君主の善悪に感化されて、善悪のいずれにもなる。人は善悪の友に依る>という意味だとしています。
荀子は、思想家であるゆえに、水を民になぞられています。つまり、<人は支配者たる君主や、友人の人間的資質や環境の影響によって、善くも悪くも変化する>と言うのです。日本でも、「墨に近づけば黒く、朱に交われば赤くなる」と言います。倫理的には、重要な教えです。
しかし、荀子が容器に入った水の形にとらわれて、丸だ四角だと見極め、そこから善悪の判断をするという、ものの見方をするのに対し、仏教では全く異なる見方をします。
『首楞嚴経(しゅりょうごんきょう)』というお経の中に、次のように記されています。
丸い器に水を入れると丸くなり、四角な器に水を入れると四角になる。しかし、本来、水に丸や四角の形があるのではない。ところが、すべての人々はこのことを忘れて、水の形にとらわれている。善し悪しと見、好む好まぬと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。
縛られた見方を外の縁に返し、縛られることのない自己の本性にたち帰ると、身も心も何ものにも遮られることのない、自由な境地が得られるであろう。
『首楞嚴経(しゅりょうごんきょう)』によれば、水が、丸い器に入った時は丸く、四角の器に入った時は四角く見えるが、それは<ひとときの受けとめ方>に過ぎないというのです。その形というのは、入れた器が、丸いか四角いかという《外縁》に触れて起こり、移り変わるひとときの心に過ぎないのです。ところが、この《外縁》によって目に映るものを実体だと、勘違いするから迷いが生じるのだと、説いているのです。
《縁》は、条件とか契機という意味で、思想的には《因》と同義です。この場合、容器という《縁》次第で水の形が変わるので、水そのものに固定した形はありません。もし、水に固定した形があると考えたならば、そこに迷いの原点があると『首楞嚴経(しゅりょうごんきょう)』は説いています。そして、「水に固定した形が無いように、人の心にも固定した形は無いのであり、《縁》によって動く心を本心と思ってはならない。動く心は、心の表面であって、根本の心ではない」と分析しています。
古来、心はコロコロと移り変わるから、心と言うようになったと言います。しかし、喜怒哀楽の波に揺れ動く心が真実の心では無く、そうした感情の奥底に本当の人間性があるのです。哲学者の西田幾多郎氏も
わが心 深き底あり 喜びも 憂いの波も 届かじと思う
と詠んでいます。波は、本来静かな水が、風を《縁》として生ずる現象です。波も静まればもとの水になるように、感情も治まれば本来の心に戻るのです。まさに、「浮遊する塵のような迷いの心を、自己の本性と思ってはならない」のです。
波が静まれば本来の水の姿に立ち返るように、『首楞嚴経(しゅりょうごんきょう)』は「すべての人々には、清浄(しょうじょう)の本心がある」と、説いています。清浄といっても、不浄に対する清浄ではありません。先に記したように、「善し悪し・好み・好まぬ」などの比較対照の感情にとらわれない、純粋を指しているのです。
『首楞嚴経(しゅりょうごんきょう)』はさらに、「(私たちが本来持ち合わせている清浄なる本心が、)外部の《縁》によって起こる、迷いの塵に覆われている」としています。たとえば、風などの何らかの刺激によって心に波が立ち、迷いの状態になります。しかし、その状態も、風などの外部の《縁》が治まれば、波も静まって、もとの静かな水面となるように、迷いはあくまでも心の<客>だと、『首楞嚴経(しゅりょうごんきょう)』は説いています。迷いは心の<客>なのですから、必ず帰るに決まっています。心の<主人>は、そこに定住している本心なのであり、<客>はどんなに長居しても必ず帰るものであり、主人のある所に定住するわけはありません。主人(本心)と客(煩悩・迷い)とを、見誤ってはいけないのです。
孟子の「人間の本性は善である」と唱えた《性善説》に対し、荀子は「人間の本性は悪である」という《性悪説》を唱え、礼法により人間性を修正する必要を説きました。しかし、釈尊の教えは、そのどちらでもありません。
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