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私たちの一生は、いつも喜怒哀楽がついて回ります。そこには、必ず明と暗があります。しかし、この明と暗は五分五分というわけには行きません。釈尊は、人生はみな苦ばかりである(「一切皆苦」)と説き、身が煩って苦しむのを「煩」、心が悩み苦しむのを「悩」、その全てを一つ残らず丸抱えしている私たちを「煩悩具足の凡夫」と申します。

この煩悩の種類を区分けすると一〇八あるというので、これを「百八の煩悩」と言い、その一番根源となっているのが、我に執着(しゅうじゃく)する心の働き《我執》(がしゅう)です。

ドイツの文豪ゲーテの物語詩に、「魔法使いの弟子」というのがあります。これは元々は古代エジプトの説話だそうですが、一人の若者が有名な魔法使いの弟子にしてもらい、毎日さまざまな魔法を教わっていました。ところが、どうしても教えてもらえない秘法がありました。それは、家の中の箒や棒切れに呪文を唱えて術を掛けると、その木っ端たちが人間の召使い同様、炊事・洗濯・掃除など何でもしてくれて、終われば呪文を唱えて元の箒や棒切れに戻してしまうというものです。

物陰に潜んで師匠の唱える呪文を盗み聴いて覚えた弟子は、師匠の留守中、早速覚えた呪文で箒や棒切れを使役し、自分の代わりに水瓶の水を汲ませました。ところが、用が済んで元に戻す呪文を忘れてしまった弟子は、際限なく水を汲み続ける棒切れを、何とかせねばと斧をふるって真っ二つに叩き割る、ところが二つに割れた棒切れは二人になって水を汲み続ける、泡を食ってまた斧で切りつけると二人が四人、また斧を振るえば四人が八人と、どんどん数が増えて水を汲み続け、とうとう家中が大洪水、そこへ帰宅した師匠が呪文を唱えて事は収まりましたが、弟子は即刻破門追放になりました、と。

この詩をフランスの音楽家P・デュカスがきらびやかな交響詩に作曲したのが広く人気を呼んで、アメリカの著名なアニメ映画作家ウォルト・ディズニーの名作「ファンタジア」となり、名指揮者ストコフスキーと人気者キャラクターのミッキー・マウスが見事に映像化して、世界中に知らない人はいなくなりました。

この「魔法使いの弟子」は、私たち凡夫の姿に似ています。次々と、形を変えては現れる煩悩を斧を振るって切断すればするほど、煩悩は変幻自在に形を変えて出没しキリがありません。追いかけ回せば、精根尽きてしまいます。ちょうど、壁や天井に映る影を追いかけるようなもので、終わることのない徒労です。

それよりも、影の現われる原因である光源をつきとめ、それを断じてしまえば、煩悩がいくらあろうとも、用をなしません。元を断ってしまえば、煩悩は根の切れた浮き草と同じで、時とともに枯れてしまいます。

ところが、この《我執》(我への執われの心)というのは、簡単に切れるものではありません。私たちが生きている限り、自己への愛着・自分本位の計算というのは、条件次第でいつでもどこでもいくらでも、首をもたげてきます。

しかし、「これは《我執》なんや」「法・道理に外れたあり方なんや」と覚っていれば、執着は執着の用をなしません。

昭和の時代に念仏の流布に活躍した安田理深(やすだりじん)という方が、晩年に隣家からのもらい火で自宅が全焼してしまった時、その直後の勉強会で語られました。

「今回、隣家からの出火で自宅が焼けましたが、隣からの類焼で焼かれた、と思うと復讐心が起こる。自分の力が及ばず焼いたと思うと、自分を責めて惨めだ。けど、焼かれたんでもない、焼いたんでもない。ただ、焼けた、と思えば、なんと言うことはない。そんなことを学びました」

焼かれたも焼いたも、自他への執着ゆえの苦しみや悲しみを伴うけれども、焼けたと思えば、事実をそのままに受け入れて、そこに執着は無いのです。
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