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アメリカの哲学者ヒューストン・スミス博士と、仏教学者であり思想家でもあった鈴木大拙博士(1870〜1966)が対談した時、スミス博士が

「釈尊が亡くなる時の最後の説法を、一言で言って欲しい」

と言うと、大拙博士は

『依頼心を捨てよ』である

と答えています。人間は依頼心を持っている限り救われない、というのです。

釈尊は晩年、弟子中の双璧であった舎利弗と目連を相次いで亡くしました。

その時、釈尊は悲しむ弟子たちの前で、自らにも諭すかのように

「すべてのものは、愛するものと別れなければならぬ時が、おとずれる。この世において移ろい変わらぬものは、何も無い。大いなる樹木にあっては、その枝が先に枯れることもある。それと同じく舎利弗は逝った。ゆえに、私は汝等に言わねばならぬ。『自らを灯火とし、自らを依りどころとし、他を依りどころとしてはならぬ。法を灯火とし、法を依りどころとし、他を依りどころとしてはならぬ』と」

言われました。

この句は、釈尊の遺言として『長阿含経』などに伝えられており、一般に「自灯明・法灯明」と言われています。この史実に基づいて、鈴木大拙博士は「『依頼心を捨てよ』である」と答えられたのだと思います。

しかし巷では、宗教というと仏に依りかかって、合格や商売繁盛を頼むものであるかのような誤解をされています。なかには、仏教の浄土門における他力を、依頼心と同じだと考えている人さえいます。しかし、それは大きな間違いです。

他力は、阿弥陀仏の本願力(すべてを救わずにはおかないという誓願)のことですから、依頼心とは全く違います。浄土門の信心は、一切を阿弥陀仏に任せきってしまうものです。

任せきってしまうのですから、自我は無くなってしまいます。

それに対し、依頼心はエゴが中心で、どこまでも自分本位です。商売繁盛も入試合格も、みな自分のことを優先しているのであって、他人のことなど考えてはいません。しかし、このわが身かわいさの身びいきが、本当に信心の入る貴重な縁になることも事実です。

「他のことを考えず、自分だけの幸せを祈って良いのだろうか?」と、ちょっと立ち止まってみましょう。入試の合格祈願の場合など、モロに他人を自分の犠牲にしているわけです。それを、「仕方がない、当然の結果だ」と自己中心的に割り切らず、少しでも心に痛みが感じられたなら、それだけ心が豊かになれたのであり、喜ばしいことです。

願い事の成否は別として、それを御縁として自分たちの生きる道を学ぶことが重要です。

この私たちの生きる道・あるべきようを、釈尊が説いたものが【法】です。

釈尊は、舎利弗と目連に先立たれた時、「幹より先に枝が枯れることもある」と言われましたが、身近な樹の枝枯れからも、【法】を学ぶことはできるのです。この【法】を学ぼうとする心が自分を支えてくれるのです。ゆえに釈尊は「法を灯火とし、法を依りどころとし、他を依りどころとしてはならぬ」と、言われたのです。

【法】を学ぶと、次第に心が明るくなります。『法句経』の二三八番目に

汝、おのれの燈となれ
すみやかにいそしみて
賢きものとなれ

と、あります。【法】を学んで精進していると、全身に仏の智慧が漲るようになり、身体が軽くなって、他の為にも気軽に尽くせるようになるものなのです。

歌人で外国文学の翻訳者でもあった岑清光(みね せいこう)さんの歌に

月光の菩薩 申さく
おのれに 光なけれど
照らされて 照る

というのがあります。月光菩薩は日光菩薩とともに、薬師如来の脇侍の仏さまです。この一首の意味は、「月は太陽と違い、自分で発光することはできない。月が輝くのは、月の力ではない。太陽に照らされて照るのであり、太陽のおかげである」というものです。これは仏教思想を詠んだ謙虚なものです。しかし、月に太陽の光を反射する機能が無ければ、照ることはできないはずです。

私たちも、太陽や釈尊のように、自らの力で他を照らすことはできません。しかし、すべての生きとし生けるものに、仏になれる種である【仏性】が具わっているのですから、少しでも【法】を学び、【智慧】に目覚めたならば、大きな感動が得られるのです。

私たちの現状は、【仏性】が具わっているとはいえ、まだ原石の状態です。「玉、磨かざれば光なし」と言われるように、ダイヤも原石のままでは光を放ちません。私たちも、煩悩に覆われてしまっている【仏性】が光を放てるように、自らを磨かねばなりません。

そのために【法】を学ぶのです。そして、研鑽を重ねていくうちに前出の岑 清光さんのように「(法の光)照らされて照る」という境地に至るのです。

自分の境地が明るくなったなら、今度はその光を他の人にも分け与え、その輪を広げていくのが教化なのです。
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