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『無量寿経』に仏の国の有様が説かれています。

その国には、さまざまな色の蓮の花が咲き匂い、花ごとに計り知れない花びらがあり、花びらごとにその色の光が輝き、光はそれぞれに仏の智慧の教えを説いて、聞く人々を仏の道に安らわせている。

と、あります。これと同じような表現が、『阿弥陀経』にも見られます。

その国には、七つの宝で出来た池があり、中には清らかな水を湛え、池の底には黄金の砂が敷かれ、車の輪のように大きな蓮華が咲いている。その蓮華は、青い花には青い光が、黄色の花には黄色の光が、赤い花には赤い光が、白い花には白い光があり、清らかな香りを辺りに漂わせている。

と、出てきます。

仏の国と言うと、何か夢のような楽園が、どこか空の彼方にあるかのように受け取られがちですが、それは悟りの世界の有り様を私たち凡夫に示そうとしたものであり、同時に私たち凡夫がいかに深い迷いの中にいるかを、知らしめようとしたものなのです。

「花びらごとにその色の光が輝く」とか「白い花には白い光がある」と言っても、それは当然だと思われるかも、知れません。しかしながら、私たちの日常は、自分の色で光ることを忘れて、隣の花を羨みながら、青い花が赤くなろうとして葛藤しているのが現実ではないでしょうか?。

蓮如上人(本願寺八代・一四九九年寂)の『御一代記記聞書』の中に、

総体人には劣るまじきと思う心あり。この心にて世間には物をし習うなり。仏法には無我にて候ううえは、人に負けて信を取るべきなり。と、あります。

何事につけ、私たちには「あの人に負けてなるものか」と思う心があるもので、習い事をする時には、こうした競争心によって上達するということも、たしかにあります。その意味では、自分より優れた人を目指して頑張るということが、必要な場面もあります。

しかし、他と比較して自分の価値を計るという生き方をしていると、勝ったと思える時には傲慢になり、負けたと感じる時には挫折感を味わうということになります。小遣いが千円の人は、一万円の人の前では劣等感を抱き、その悔しさを慰めるために、自分よりも少ない人を捜すということになります。

「体が弱くて落ち込んでいましたが、病院に行ってみると、私よりひどい人がたくさんいることがわかりました。あの人たちに比べれば、私なぞ、随分良い方ですよ。幸せだと思わなければ・・・・・」

などと言っているのをよく聞きます。これが、自分より不自由な人を見て、「現在の状況に感謝をしなければ!」と思って言っているならば良いのですが、比較しては自分の幸・不幸を計るような考え方に陥ると、自分より幸せな人が周りにいる限り、幸せを感じることはできず、逆に不幸な人が多いほど自分は幸せになるという身勝手な論理になってしまいます。

『無量寿経』に、

富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。(中略)貧しい者は、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて心身ともに疲れはててしまう。

と、あります。

これは、蓄財の欲望の果てしないことを誡めたものですが、なにも財欲に限ったことではありません。学力・能力・体力・権力等々、他人と比べて勝ったか負けたかを繰り返している私たちの生き方そのものが、自らを悩ましているのです。

「人に負けて信を取るべきなり」という蓮如上人の言葉は、しょんぼりと負け続けて生きなさい、という意味ではありません。他人との比較によって自分を値踏みしようとする生き方から解き放たれたところに、本当の安らぎに至る道がある、と示されているのです。

毎年、春先に入学式に臨む学生を見ると、希望に胸を膨らませ、溌剌とした学生たちに混じって、どことなく輝きを失った元気の無い顔が見受けられます。おそらく、第一志望が叶わず、不本意ながら入学した学生なのでしょう。現代の学生の最大の不幸は、偏差値や世間の評判などの大人たちが作り出した物差しに引きずられて、自分自身の価値を他人との比較によってしか、確認できなくなったことではないでしょうか?。もしそうならば、そうした執着から学生たちを解放し、「私は私で良かったのだ」「この授かった命をいかに生きるかが大切なのだ」という方向へ、眼を向けさせることが重要です。

釈尊の数多くの弟子の中に、「十大弟子」と言われる人たちがいます。彼らは、智慧第一の舎利弗、神通第一の目連、多聞第一の阿難というように、全てが第一と呼ばれ、第二も第三もありません。それは他人との比較によって値踏みをするのではなく、かけがえのない一人一人の尊さを、その存在そのものに見ようとした釈尊の眼の深さを表しているのです。

※赤き花 赤しと見つつ 白き花 白しと見つつ 今日を足らえり (岡本かの子)
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