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 嵐の海で船が難破しました。多くの客が海に投げ出されました。泳げない人は、すぐに海に沈んでしまいます。泳げる人であっても嵐の海では、まず助かりません。こんな時は流木か何かにつかまって静かに救助を待っているよりほかありません。

 そこで、一人の男が板につかまっていました。しかし、この板は非常に小さいものですから一人の人間しか浮かべる力がありません。二人がこれにつかまると、二人とも沈んでしまいます。そこに、もう一人の漂流者がやって来ました。彼は自分が助かるためには、先に板につかまっていた男を殺すしか、ありません。板には、一人の人間しか浮かせる力がないのですから、二人でつかまることはできません。したがって、当然板の奪い合いになるでしょう。

 後から来た男は、自分が助かるためには先の男を殺さねばなりません。先の男は、自分が助かるためには、後から来た男を殺すしかありません。では、先の男が後の男を殺してよいのでしょうか?あるいは、後の男が先の男を殺してよいのでしょうか?一体、どちらに権利があるのでしょうか?

 実は、この問題は古代ギリシャの哲学者カルネアデスが提起した問題です。カルネアデスは、これを法哲学の問題として提起しました。それ以来、この問題をめぐって、多くの意見が出されています。ここで問われているのは、自分の生命を守るために他人の生命を犠牲にしてよいのか否か?、といった問題です。法学者によると、現行の刑法においては、どちらの場合も「正当」とされているそうです。

 つまり、どちらがどちらを殺してもよいのだそうです。先に板につかまっていた男が、後からそれを奪いに来た男を殺しても、それは「正当防衛」として、認められるのだそうです。後から来た男が、先につかまっていた男を殺して板を奪うのも「緊急避難」として許されるのだそうです。私は、これはあまりにも「むごい」と思います。しかし、法律というものは、自分の生命を守ることを前提としているので、そういう解釈になるのだそうです。

 けれども、たとえ法律的に許される行為であっても、これは宗教的には許されません。日本人は、法律的な善悪・道徳的な善悪・宗教的な善悪を、ごちゃまぜにしている傾向があります。法律的・道徳的には自分の命を守るために他人を犠牲にしても、許されるかもしれませんが、宗教的には許されません。そこのところをよく認識してほしいのです。

 仏教では「布施」ということを説いています。布施とは、一言で言えば他人にものを施すことです。施すものは別に金品に限っているわけではなく、「無財の七施」と言って、財産など何も無い人でも、他人に施せるものが七つはあるとされています。しかし、他人に施せばみんな布施かというと、そうではありません。施しが布施になるためには、次の条件が必要です。
施者が清浄であること。相手に恩を売る気持ちがあったり、お礼を期待する気持ちがあっては、布施にはなりません。
受者が清浄であること。施しを受ける人も、こだわりなく受けてもらわないと、布施にはなりません。
施物が清浄であること。自分にとっても必要なものを施すこと。
 これらの条件が満たされてこそ、施しが真の布施となるのです。

 ここで注目してほしいのは、最後の条件です。というのは、日本人は施しをするときに自分にとって不必要なものを施す傾向があるからです。「自分にとって不必要なもの」という表現は適切ではないかも知れないけれども、多くの場合、日本人はそれを他人に施しても、自分が生活に困らない範囲内で施しをします。その端的な傾向は、日本人が贈り物をするときの

 「つまらないものですが……」

という言葉に表れています。もちろん、この言葉は謙遜の意味で言われるものです。

 「つまらない」というのは、相手がそれを貰っても、恩義を感じる必要はありませんよ!という思いやりの気持ちの表れです。けれども、欧米ではこんな言葉は、絶対に言いません。

 欧米では、プレゼントのときは相手に必要なものを贈ろうとします。相手にふさわしいものを選んで贈るのが、欧米の常識です。ですから、日本人が「つまらないもの」と言えば、おまえは俺をそんなつまらぬものがふさわしい人間だと思っているのか!ということになって反感を買うのです。

 真の布施とは自分にとっても重要なものを施すことです。それを施すと、たちまち自分が困るようなものを施してこそ、真の布施です。例えば、カルネアデスの板です。自分がつかまって漂流している、その板を他人に譲る。そして、自分は死んでいく。それが、本当の布施です。もちろん、後から来た人にも布施はできます。自分がつかまろうにも、板は無い。ようやく見つけた浮き木には、既にそれにつかまっている人がいる。そういう時に「どうかあなただけでも助かって下さい。私はいいですから」という気持ちになれるのが本当の布施です。相手に自分の大切な命を布施しているのです。

 自分にとっても重要なものを施す。それが真の布施です。とすると、凡夫である我々には、とても自分の命を施すような布施はできません。でも、それはそれでよいのです。私たちに真の布施はできない。そう自覚するとことが大切です。でないと、ほんのちょっとした布施をして、相手に布施をしたような気持ちになってしまいます。そんなおごりの心を持ってしまうと、布施は布施ではなくなってしまいます。

 布施は、こだわりのない心でせねばなりません。そのためには、私たちに完全な布施ができると思っては、いけないのです。とても、私たち凡夫に完全な布施はできない。金品や財産を施すのであれば、持っているすべてを施さなければならない。しかし、我々にはそうはできない。私たちがしているのは、まだまだ布施になっていない不完全な布施なのだ。そう自覚すると、相手に恩をきせる気持ちはなくなります。

 カルネアデスの板を施すのが、真の布施です。布施とはそういう難しいものなのです。
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