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年忌法要は、故人の冥福を祈り、功徳を回向することで、生前の悪業が軽減され、善福が得られることを願って行なうものです。現在では、一周忌(小祥忌)から、一定の年数の間隔を空けて特定の故人に対して行なう仏事として定着していますが、前述の中陰という観点から孝えると、年単位ではない四十九日や百ヶ日の法要も、年忌法要と同様の趣旨で行なわれているということになります。

仏教では元来、中陰の四十九日を限りとし、日本でも古くは一周忌を果(喪明け・納めの供養)としていました。にもかかわらず、現在の日本の仏教は一周忌に止まらず、多くの年忌法要が営まれているのはどうしてでありましょうか?。今回はそこを掘り下げて見たいと思います。

仏教では、死後、次に生まれ変わるまでの間に一定の期間がある、としていました。その期間とは最長で四十九日、いわゆる七七日であり、この期間を「中有」、その間の存在を「中陰」と呼んで、この間に六道のいずれかに転生すると説いていました。したがって、転生した以後の法要はそもそも意味が無いとしていたので、インド仏教では七七日をその限りとしていました。

ところが、仏教がインドから中国に伝播すると、儒教や道教といった中国固有の思想と融合して、仏教の法要も中国文化に順応したものとして、形を変えながら理解され浸透していったわけです。

インド仏教では、基本的に七七日までの存在を「中陰」とするものの、その期間については諸説が有り、断定的ではありませんでした。そのため、中国においては、更に長い中陰の期間を説く経典が撰述されることとなりました。それが、「十王信仰」を説く『仏説預修十王生七経』(十世紀頃の成立)です。

この経典では、死後、冥土で滞っている状態の亡者が、旅の途中で十人の冥王の関所を通り、そこで生前の業に対する裁判を受け、転生先が決められると説かれています。この経典の特徴的な点は、「六道輪廻仍を未だ定まらず(死後一年を経ても、まだ次の転生先が決まっていない)」とあって、一周忌を過ぎても転生していない可能性があると明記されていることです。これにより、「中陰」の期間が七七日から更に百ヶ日、一周忌、三回忌へと延びることになったのです。

また中国で「中陰」の期間が死後三年(満二年)まで延びた背景には、儒教の「三年の喪」の影響があるとされています。その典拠として、『論語』の「陽貨篇第十七」には「両親の死後、その子として三年間喪に服することは、世界中の誰もが行なうべき喪である」とあります。また、さらに「生後三年間は両親に抱かれ育てられたご恩に報いる期間である」とあって、「三年の喪」は自らが親から養育された恩に報いる期間であるとされています。

そのほか、儒家の「喪制の文」にも「百ヶ日を卒哭忌」「一周忌を小祥忌」「三回忌を大祥忌」とする記述が見られ、中陰期間の延長が儒教の影響であったことが確認できます。つまり、仏教と儒教の二つの思想が結び付き、初七日から三回忌までを限りとする「十仏事」が成立して年忌法要の礎が築かれたのです。

では「それぞれの法要は、いつ執り行なうのが良いのか?」ですが、人が死後、六道の中でもより上の世界(天上界や人間界)に転生するためには、十王による裁判の判決前に、故人の縁者が法要を行なって功徳を回向する必要があります。したがって、遅くとも正当の前日までに各法要を行なわなければならないとする地域と、正当の日の日没までに行なえば良いとする地域とがあります。

このように中国においては、初七日から三回忌までを「中陰」としてとらえ、この間の十回の法要を「十仏事」としていたのです。

これに対し日本では、平安時代を通して一周忍を「果」と呼んでその限りとしていたのが、時代を経るにつれ、次第に法要の数が増えてきたのです。

まず、中国で採用された「十仏事」に、七回忌・十三回忌・三十三回忌の三つが鎌倉時代の末期頃に加えられました。これは「十三仏信仰」に依るものです。ひと区切りになる法要を三十三回忌としたのは日本に古代よりあった「弔い上げ」の風習に合わせたものともされますが、別に観世音菩薩が三十三に身を転じて衆生を済度する「観音信仰」によるとするものや、釈尊が三十三才の時、三十三天(忉利夫・須弥山の頂上)に登って亡き母(摩耶夫人)の為に説法したという説話を根拠とするなどさまざまな事柄が要因とされています。

また、年忌法要が日本化したことを示す経典としては、前出の『仏説預修十王生七経』を改変した『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』の存在が挙げられます。この経典は江戸時代初期に撰述されたものであり、『仏説預修十王生七経』には無かった本地垂迹説(神仏同体説、ここでは各王が仏や菩薩の化身となっているという考え方のこと)が取り入れられており、各王ごとに「本地仏」が配されています。

一方、年忌法要の期間が延びたことによって、七七日までは各一週間ごと、七七日から百箇日までは五十一日、百箇日から一周忌までは約八ケ月半、一周忌から三回忌までは一年と、比較的短かった法要までの間隔が、七回忌までは四年、十三回忌までは六年、三十三回忌までは二十年と徐々に長くなっていくのです。更にこの長い間隔を埋めるため、十二支や聖数である三や七を元に法要が増やされることになり、十五世紀中頃には十七回忌(『康富紀』、一四五〇年六月九日条)、二五回忌(『蔭凉軒日録』、一四三七年七月十三日条)、十八世紀後半には二十三回忌(『天明集成絲綸録』、一七五三年二月条)、二十七回忌(『天明集成絲綸録』、一七八七年五月条)が行なわれていたことが立証されています。また、三十三回忌以降の年忌法要についても、五十回忌や百回忌、以後五十年ごとに行なわれる遠諱(おんき)法要も日本中世末頃から近世にかけて行なわれるようになったのです。

しかし、これらの年忌法要には矛盾が存在することも忘れてはなりません。わが国においては、四十九日(七七日)の法要をもって「満中陰」とするのが通例ですから、四十九日以降の法要は転生後の法要となってしまい、実施する意義があるかどうかという問題があります。

また、本居宣長の『玉勝間』巻二「忌日祥月年忌の事」に「皇国 (=日本)では一周忌を果とし、もろこし(=中国)では三回忌を服の果(服喪の果)としてのみあったのであり、その外仏の道にもこれ以外の年忌法要は無かった」と指摘しています。確かに、各年忌法要については、一応の説明は可能ですが、仏教経曲にその典拠を求めることはできません。

本来、仏教では自業自得を説き、自らの業によってのみ転生先が決まるため、現世以外に徳を積む機会はありません。しかし、それでは余りにも厳し過ぎて救いが無いとして見出された救済策の一つが親類縁者たちによって執り行われる年忌法要であったわけです。

現代に生きる私たちは、このような歴史的背景を踏まえて故人に感謝して冥福を祈り、更には一切衆生の救済を願いながら功徳を積んでいきたいものです。

参考文献
松浦秀光箸『禅家の葬法と追善供養の研究』山喜房仏書林
臨済宗妙心寺派教化センター「現代的『供養の意義』を求めて葬と供養」(『対一説』第三集)
徳野崇行箸『日本禅宗における追善供養の展開』国書刊行会
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