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浄土三部経(じょうどさんぶきょう)の一つに、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』というお経があります。

その中に、

「遠い過去の大昔、この世に世自在王仏(せじざいおうぶつ)が出現された時、一人の国王がこの仏の説法を聞いて感動し、王位を捨てて出家し、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)となった。法蔵菩薩は久遠(くおん)の間、深い思索を重ね、やがて四十八願を立てる。そして、その願を完成して、阿弥陀仏(あみだぶつ)となった」

とあります。

法蔵菩薩は四十八願を立てるに先立ち、世自在王仏に

「私が正しい悟りを得、如来となれるような方法をお説き下さい。また、お浄土の様子を私の心に取り入れられるようにお示し下さい」

と、懇願(こんがん)しています。この懇願に対しての世自在王仏の答えが、梵語(ぼんご)《サンスクリット》の原文の和訳では、

「修行僧よ、あなたが自ら、仏国土(浄土)の見事な特徴や配置を、取り入れたらよいではないか」

『浄土三部経上』岩波文庫

となっていますが、ここでいう「取り入れる」とは、外に向かって求めることではなく、自己の中に向かって求めることです。ゆえに、漢訳の『無量寿経』では、

「汝(なんじ)、自らまさに知るべし」

と、なっています。

「汝、自らまさに知るべし」という言葉を聞くと、現代人の多くは、ギリシャの哲学者ソクラテスが座右の銘としていたという「汝自身を知るべし」の句を、思い浮かべることでしょう。たしかに、よく似た表現ではありますが、その意味はまったく異なります。

周知の如く、「汝自身を知るべし」の句は、古代ギリシャのパルナソス山麓(さんろく)の町、デルフォイにあったアポロン神殿に掲げられた銘文の一つです。この句は、《まず、自分が無知であることを自覚し、その上で本当の知を得るように努力しなくてはならない》ということを示唆(しさ)しています。ソクラテスは内観的な反省ではなく、彼の問答法によって相手に無知を自覚させ、新たな自己探求(たんきゅう)を促すところに特徴があり、この銘文をその目標としたのです。

これに対し、『無量寿経』の世自在王仏が法蔵菩薩に示した「汝、自らまさに知るべし」というのは、単に相手に自分の無知を自覚させるだけではありません。誰しも、心の底に仏性が具(そな)わっている事実を自覚せよ!と、勧めているのです。ここに、ソクラテスの「汝自身を知るべし」との大きな相違があります。

仏性(仏心)は、《仏としての本質・仏になることができる可能性》のことです。仏は【仏陀】Buddhaを縮めたものであり、【仏陀】Buddhaは《真理を悟った人》という意味ですから、「誰もが皆、生まれながらに仏性(仏心)を具えている」とするのが大乗仏教なのです。

「誰もが〜」ということは、人間ばかりではなく、すべての生きとし生けるものに仏性が具わっているのであり、だから尊い存在なのだ、というのです。にもかかわらず、私たちは悲しいことに、仏性を身に具えていることに気づかずに、日々を過ごしているのです。仏性を持ってはいるのですから、思い出すか、気づけばよいのです。この事実を自覚するのを「自ら知る」というのです。

蘇東坡(そとうば)《蘇軾(そしょく)とも・1101没》は、中国北宋(ほくそう)時代の有名な文学者・詩人・政治家ですが、彼は仏教思想にも深く通じていました。

ある日、彼が仏印和尚(ぶついんおしょう)と道を歩いていた時、たまたま路傍(ろぼう)の観音像を見つけた和尚は、蘇東坡(そとうば)との会話を止めて読経しました。蘇東坡もこの間、和尚の傍らで合掌して礼拝(らいはい)していましたが、和尚の読経が終わると蘇東坡は、

「私たちが、観音さまを合掌して拝むのは当たり前ですが、よく見ると観音さまも合掌していらっしゃる。観音さまは一体、何を念じ、誰を拝んでいらっしゃるのでしょうか?」と、尋ねました。すると仏印和尚は、

「人に求めんよりは、己に求むるに如(し)かず」

と答えました。《人に答えを求めるよりも、自分に答えを求めた方が、真実の答えが得られよう》と言うのです。

これぞ、「汝、自らまさに知るべし」です。

「誰もが皆、生まれながらに仏性(仏心)を具えている」というのが釈尊の教えです。

ですから、辛い時や悔しい時も、「心の中の仏さまが、自分を見守って下さっている」と信じて、精進(しょうじん)を重ねることが大切なのです。
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