他の法話へ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40
| 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60
| 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 | 80
| 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | 88 | 89
インドにおける初期の仏教においては、心を持たない自然物(無情)は言うまでもなく、生物(有情)であっても、今生で仏になれるとは考えられていませんでした。こう言うと、『白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじざぜんわさん)』は「衆生本来仏(しゅじょうほんらいほとけ)なり」で始まり「この身即ち仏なり」で終わるではないか、と言われそうですがこのようなものの見方は、少なくとも文字の上では、中国で栄えた禅宗において全面的に主張されるようになったもので、インドの古い文献には見られない見方です。

そもそも初期の仏教で目指されていたのは、仏ではなく羅漢でした。羅漢とは何かというと、一言で言えば「煩悩を滅した聖者(しょうじゃ)」です。ただ、迷いを脱した聖者でありますが、仏よりは一段劣った存在です。

それでは、仏と羅漢はどう違うかと言うと、仏は巧みな方便を用いて衆生を済度出来ますが、羅漢は下積みが仏には遠く及ばない為、衆生の済度が出来ません。仏は現世に生まれる前の過去世において、永遠とも思えるような途方もない時間をかけて、ずっと修行をされて来た方なのです。

ところが、羅漢は仏のような修行の下積みが無い為、衆生を済度することが出来ません。そもそも仏の教えを聞いて感動した人々が仏教徒となり修行を始めたわけで、彼らは仏を仰ぎ見こそすれ自分が仏と同じ存在になれるとは考えていなかったのです。

しかし、釈尊が亡くなられてから約五百年後の紀元前後になると、《大乗仏教》という新しいスタイルの仏教が出現します。彼らは、それまでの仏教を「小乗」(自分の救いのみを求める小さな乗り物)と批判し、自らを「大乗」(一切衆生を普く救う大きな乗り物)と称しました。彼らは、それまでの仏教が目指していた羅漢になる道ではなく、菩薩(ぼさつ)として生きる道を歩み出しました。菩薩とは何かというと、菩提(悟り)を求める薩多(生き物)のことです。菩提とは釈尊と同じ悟りのことで、それを得て仏となることを目指すようになったのです。

この誓いを立てるのが四弘誓願(しぐせいがん)であり、この四つの誓願を立てることで人は仏と同じ悟りを求める菩薩となり、大乗の道を歩み出すわけです。しかし、ここで注意しなければならないのは菩薩はあくまで「仏と同じ悟りを求める生き物」であって、まだ仏ではないというところなのです。つまり大乗仏教の菩薩もまた、それ以前の仏教で目指されていた羅漢同様、仏よりは劣る存在ということなのです。

要するに、初期仏教であれ大乗仏教であれ、インドにおいてはそもそも仏になれると考えられてはいなかったのです。これは別に不思議なことではなく、釈尊自身も、自分の次にこの世において仏と成るのは五十六億七千万年後に出現する弥勒だ、と仰っています。

京都の太秦(うずまさ)の広隆寺に参りますと、国宝の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)がありますが、あれは何をしているところかというと、まだ菩薩の段階にいる弥勒が兜率天という上の世界で、将来この世に降下した際にどうやって衆生を済度しようかと考えているところなのです。しかし、釈尊の予言に拠れば、弥勒菩薩が仏となるのは、釈尊から五十六億七千万年後なわけです。ということは、今はまだ釈尊が亡くなられてから二千五百年しかたっていないわけですから、弥勒菩薩が仏となるまでの間にこの世に生まれた生き物は仏となれる可能性は無いということになります。

インドにおける初期仏教においては、今生において人は仏にはなれないということは常識でした。

それが大乗仏教の登場によって、《すべての生き物には仏性(仏になれる本性)が備わっている》と唱えるようになったのです。実際、大乗仏教を代表するお経の一つである『涅槃経(ねはんぎょう)』に
「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」
と記されています。つまり、私たち生き物には、みな仏としての本性が具わっているので、あとはそれを覆い隠している煩悩を修行によって取り除いて行けば、来世か来来世か、もっと先かも知れませんが、輪廻を繰り返して行く中でいつかは仏になることが出来るというわけです。

では、情の無い自然物はどうでしょうか。この点について『涅槃経』には、
「仏性に非ざる者とは、所謂る一切の牆壁・瓦礫、無情の物なり。是の如き等の無情の物を離れて、是を仏性と名づく」
と、牆壁や瓦礫などの無情物は仏性に非ずと記されています。つまり、仏としての本性を有するのは情がある「有情」のみで、情を持たない「無情」には仏性は無い、とインド仏教では考えられていました。

その後、インドで生まれた仏教は中央アジアを経て中国に伝わり、二世紀(後漢末)になると経文が翻訳されるようになり、更に五世紀(南北朝)から九世紀(唐)にかけて経文の解釈をめぐりさまざまな学派が成立し、「無情にも仏性がある」と言われるようになったのです。これについては、唐代に興った禅宗の教えに依る所が大きいのですが、これについては後述します。
他の法話へ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40
| 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60
| 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 | 80
| 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | 88 | 89