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『大般涅槃経』に

施しても施したという思いを起こさず、ことをなしてもなしたという思いを起こさない。ただ、それが賢いことであり、正しいことだからするのである。それは、母親が一枚の着物を愛するわが子に与えても、与えたという心を起こさず、病む子を看護しても、看護したという思いを起こさないのと同じである。

とあります。

これは、私たちが他人に何かを施した場合に「私が与えた、施した」という思いを抱いてはならない、自分の行為に執着してはならない、ということを説いたものです。

『般若経』系の経典の中では、布施の行を修める上で【三輪体空(さんりんたいくう)】もしくは【三輪清浄(さんりんしょうじょう)】ということを特に重んじます。【三輪】とは、布施をする主体(施者)・布施を受ける相手(受者)・布施する物(施物)の三要素を指します。これらの各々の要素に執着しないことを施空・受空・施物空と言い、すべてに執着(しゅうじゃく)しないことを【三輪体空】【三輪清浄】と言います。

施空というのは、布施する主体である自分は、もともと《縁》に因って生じたもので、《空》にして無我なる存在なわけですから、布施する自分という実体が無ければ、その布施に対する福報を求める心も生まれては来ない、ということを指します。

受空というのは、布施をする主体(施者)が自我を離れ、自分が布施するという思いが無くなれば、相手を受施者と思う心も無くなるのであり、これを指します。

そして施物空というのは、布施する金銭物品もまた《空》であると思うならば、その金銭物品について執着する心も無くなるということを指します。

このように、施者・受者・施物の三要素である【三輪】が、もともと無我・空であることを体解するならば、その布施は最も清浄で優れたものとなるのです。

この代表的なのが『賢愚経』に説かれている【貧者の一灯】の話です。

釈尊が拘薩羅国の首都 舎衛城 Sravasti の南にある祇園精舎におられた時、多くの人々が釈尊とその弟子たちに対して、さまざまな供養を施していました。

その町に、とても貧しい暮らしをしていた女性がいました。彼女は、自分も少しでも善根を積みたいと考えましたが、何分にも貧しく、いかんともなりません。それでも、一所懸命乞食を重ね、やっとわずかなお金を手にしました。彼女は、お金を持って油屋に行きました。油屋の主人は、そんなわずかのお金ではいくらも油は買えないよ、いったい油をどうしたいのかね?、と尋ねました。彼女がその思いを語ると、油屋の主人は何倍もの油を与えました。

彼女はとても喜んでまっすぐに祇園精舎に行き、その油を仏前に供え

「今、私は貧しく、わずかばかりしか御供養できませんが、この功徳によって智慧の光が多くの人々の心の闇や汚れを滅し取り除くことができますように」

と願って、心から深く拝礼しました。

その夜が明ける頃、精舎のほとんどの灯火は油が尽きて消えていきましたが、彼女の捧げた灯火だけは、耿耿と輝いていました。それを見た目連は、昼に灯火をともすのは無駄だと考え、手であおいで消そうとしましたが、灯火はあかあかと燃え続けていました。

その様を見た釈尊は目連のそばに近づき、

「この灯火は、汝らの手におえるものではない。この灯火は、あらゆる大海を注いだとしても、また強い嵐をもってしたとしても、決して消すことはできないであろう。それは、自分のことは捨てて、多くの人々を救おうという大心を起こした人が布施した灯火だからである」

と言われました。そして、釈尊は

「彼女は来世に、200 大劫という長い間、さまざまな修行を続け、ついには灯火如来という名の仏になるであろう」

と予言されました。

これが『賢愚経』に説かれている【貧者の一灯】の話です。

祇園精舎に献じられた無数の灯火は消えていったのにもかかわらず、なぜ彼女の灯火だけは消えなかったのか、それは彼女の誓願が単なる利己心を離れ、未来の世においてあらゆる人々の心の闇や汚れを滅し取り除きたいという広大な利他の志願によるからだ、と釈尊は説いています。ここに布施行の誠の意趣が見事に教示されています。

私たちも、利己心を離れた大いなる誓願のもとに、布施行を積まねばなりません。
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