1940年7月、ナチスドイツに迫害されていたユダヤ人たちは、日本通過ビザを求めリトアニアのカウナスの日本領事館へ押し寄せました。オランダやフランスもナチスに占領され、ソ連から日本を通って他の国に逃げるほか、もはや助かる道は無くなっていたためです。
この時の日本領事館の領事代理の杉原千畝(スギハラチウネ)さんは、5人のユダヤ人代表を選んで話を聞きました。その結果、ビザの発行を考えましたが、数人のビザなら領事の権限で発行できますが、数千人のビザとなると本国の許可がいります。杉原さんは電報を打って問い合わせましたが、日本政府は再々に渡り「ユダヤ人難民にはビザを発行しないように」と回答してきました。杉原さんは一晩中考えぬいた末、外務省の意向に背き、自らの判断でビザを発行することを決断しました。それから約1ヶ月、杉原さんはビザを書き続け、これによって6000人とも8000人とも言われるユダヤ人の命が救われました。
それから、28年後の1968年8月、杉原さんの元にイスラエル大使館から電話がありました。その日のうちに大使館を訪ねると、参事官が1枚のボロボロの紙を差し出して、
「これを覚えていますか?」
と尋ねました。それは28年前に杉原さんが、カウナスでユダヤ人に発行したビザでした。
「私はあの時、領事館であなたと交渉した5人のうちの1人、ニシュリです」
杉原さんの脳裏に、カウナス領事館での出来事が、ありありと浮かんできました。ビザを受け取ったユダヤ人たちは、「ありがとう。スギハラ!」「私たちはあなたを忘れない。もう一度、あなたに会いに行きます」と、口々に叫んでいました。あの日の約束を守り、ユダヤ人たちは28年もの長い年月、杉原さんを探し続けて、やっと再会したのです。
翌1969年、杉原さんはイスラエルに招かれました。そこには、ニシュリ氏と共に杉原さんと話し合った5人のうちの1人、宗教大臣のバルハフティック氏がいました。2人は堅く握手を交わし、生きて再会できたことを喜び合いました。
バルハフティック氏は、この時初めて、杉原さんが外務省の方針に背いて、ビザを発給したことを知りました。杉原さんは職を賭して独断で発行したのです。
杉原さんは、亡くなる前年に自宅を訪れた人に、次のように述べています。
「なぜ、私がこんなことをしたのか知りたいでしょうね。難民が目に大粒の涙を浮かべて懇願してくるのを実際に見れば、誰でも憐れみを感じずにはおれないと思いますよ。それは同情せずにはおれないものです。難民の中には、お年寄りや女性の方もいるのです。彼らは必死のあまり、私の靴にキスさえしていました。ええ、そういう人を実際に見ました。それに、当時の日本政府(この件について)まとまった見解が無いように感じました。軍部はナチスの圧力を恐れていましたし、他の内務省の役人は単に興奮しているだけでした。それで、彼らの返事を待たずに事を進めることに決めたんです。あとで、確実に誰かから叱られるだろうとは思っていましたが、自分ではこれが正しい事だと思いました。人々の命を救うのに、悪い事は何も無いはずですからね。それは人間愛、慈悲といったようなものです。こうしたものにより、私はこの最も困難な状況にあって、自分の決断を思い切ったわけです」
「困っている人を見たら何とかしてあげたい」と思うのは、人間であれば誰でも持ち合わせている「人情」です。
しかし、仏教でいう「慈悲」は「人情」とは領域が異なります。
天台宗を開いた最澄は、「己を忘れて他を利する慈悲の極みなり」と説いています。
最澄は、「慈悲の【慈】は、自分の大切なものを他の人に何もかもあげる。他の人のために、自分のすべてを投げ出して尽くす心である」
と説き、「慈悲の【悲】は、自分の悲しみでなく、他の人の悲しみが自分のことのようにひしひしとわかる心である」と、説いています。つまり、「慈悲とは、他の人のために自分のすべてを投げ出すこと」なのです。
先に述べたリトアニア領事館の杉原さんが、自分の職を賭してまでユダヤ人にビザを発行したのは、「困っている人を見たら何とかしてあげたい」という「人情」の枠をはみ出たものであり、最澄の言う【慈悲】に該当するものです。
この時代は、どこの家でも先祖を祀り、仏法に帰依するというのが普通でした。先祖や仏に感謝をするという習慣の中で自然と、すべての人が尊い命を授かっているのだ、という心が育まれました。したがって、当時は今日のような陰湿なイジメや家庭内暴力などは無く、自分の心を制御できなくなる所謂キレるということも少なく、ホームレスのような弱者を襲うということは誰も考えもしなかった時代でした。そういう社会だったからこそ、杉原さんのような人が現れたのだと思います。
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