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神学者によると、

「日本の神さまは、神様でも間違いをすることがある」

という特色があるそうです。

これは、キリスト教やイスラム教では考えられないことです。キリスト教やイスラム教では、神は唯一にして絶対であり、完全無欠の存在です。しかし、日本の神々は多種多様であり、さまざまな性格を持っています。品行方正な神様もいれば、中にはちょっと眉をしかめたくなるような神様もいます。

しかし、それはそれで良いのです。そもそも日本人は、完全無欠なるものを求めません。「そもそも、そんなものは在り得ないのであって、神様だって時には過ちを犯すものさ」というのが、日本人の人間観の基本原則となっています。

あの聖徳太子でさえ、『十七条の憲法』の中で

「ともにこれ凡夫のみ」

と、述べています。《凡夫》というのは仏教用語で、「世俗の煩悩に迷っている愚か者」という意味です。


日本人の感覚では、人間は基本的に《凡夫》であり、神様でさえも時には過ちを犯すという考え方をしています。したがって、物事の正邪をはっきりさせない傾向があります。物事の正邪は、聖人・賢者にしてはじめて決められるのであって、《凡夫》がいくら多数集っても、《凡夫》は《凡夫》であって愚かな存在なのですから、正邪を決定することはできません。

もっとも「三人寄れば文殊の智慧」という言葉もあります。文殊菩薩は、智慧の優れた菩薩です。《凡夫》であっても三人寄れば、文殊菩薩のような智慧が出てくるというのです。確かに、三人寄れば案外良い智慧が浮かぶことも、少なくありません。

しかし、これを裏返して考えると、「愚かな《凡夫》は一人で決断すると、誤りが多くなるから少なくとも三人で熟慮しろ」ということにもなります。

ただし、これは三人までのことで、四人、五人となると、逆効果の場合が多いようです。それを、「船頭多くして 船 山に上る」と言います。

ともあれ、古来日本人は「神々でさえも過ちを犯す」「われわれは凡夫である」という認識に基いて、大勢で相談するという傾向があります。これを【日本的合議制】と、言います。この【日本的合議制】と、戦後に日本へ導入された【民主主義的多数決原理】とは、まるで違うものです。

【民主主義的多数決原理】は、「人間は正しい判断ができる」ということを前提にしています。現実には、人間は過ちを犯しますが、それは偶々いろんな悪条件が重なったからであり、「冷静に考えれば、人間は誰でも正しい判断ができる」という人間に対する信頼が、【民主主義的多数決原理】の背後にあります。しかも、そうした悪条件は多くの人が集まって意見の交換をすることによって、わりと容易に克服できると考えられています。一人では見落としてしまったことも、多くの人が加わることによって補えるという考え方なのです。

ですから、「大勢の人間の意見が正しい」というのを前提としているのが、【民主主義的多数決原理】なのです。

けれども、現実には大勢の人間の選択が間違っていたケースは、いくらでもあります。ヒトラーの率いたナチスは、当時多数の支持を得て政権を執ったのですが、歴史的にその政策が正しいとは限りません。似たようなケースは、洋の東西を問わずたくさんあります。

また、心理的に考察すると、集団に意志決定をさせると、将来起こり得る大きな危険を見落とす可能性があります。たとえば、一人が勇ましい発言をすると、表面上は誰もそれに反対できないものですから、その勇ましい意見に引きずられて、集団の全員が過激な決定をしてしまうケースがあります。こうした危険性を含んでいるのが【民主主義的多数決原理】なのです。

これに対し、【日本的合議制】は「不完全な人間」を前提としています。神道的表現をすれば「神々ですら過ちを犯す」のであり、仏教的表現をすれば「我々は凡夫である」という考え方に立脚しています。

そして、その運営における特徴は「絶対に採決しない」ことです。ここが決定的に【民主主義的多数決原理】とは異なります。最終段階において、賛成・反対の意見表明をしないのが、【日本的合議制】の特徴です。

「絶対に採決しない」ということは、採決しなくても決まるわけですから、言い換えれば「満場一致」ということになります。「反対者が無いから、採決する必要が無いのだ」という理屈になります。

しかし、現実には反対者が一人も無いということは、あまりありません。「私は反対だ」と思っている人はいます。けれども、その場の雰囲気を察知して、大勢が賛成している時には、その人は黙ってしまいます。途中まで反対意見を述べていても、頃合いを見計らって沈黙に移ります。

そして、司会者が

「まあ、大体この辺でいかがでしょうか?」

と、まとめをして、決定したような・しないような曖昧のまま、終わるのです。

そういう際に、「わしは、何が何でも絶対反対だ!」という人がいると、その場はシラけます。そういうタイプの人は煙たがられ、仲間はずれにされます。

私個人の意見を言わせてもらうと、私はそういう曖昧さが大嫌いです。それぞれが自分の意見をはっきり述べ、議論をして決定するべきなのであって、煙たがられたくないがゆえに自己の意思表示をしないのは卑怯であり、責任回避の手法であり、八方美人でしかないと考えています。

しかし、角度を変えて見てみると、この【日本的合議制】は、「人間は過ちを犯す」という考えが前提となっていますから、「満場一致」(反対者なし)で決まったことであっても、実は正しい決定とは思われていないのです。「ひょっとしたら、この決定は間違っているかもしれない、けれどもまあとりあえずはこれでやってみよう、駄目ならその都度軌道修正すればいいや」という軽い意識で運営されているのです。そう考えると、「まあ大勢に影響ないことは、みんなの意見に任せてみるか」という気持ちにもなれます。

私たちは《凡夫》です。《凡夫》は過ちを犯します。集団の運営は、そのことを前提にした方が、良いのではないでしょうか?。
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