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〈中陰〉とは、人が亡くなってから次に生まれ変わるまで間の存在を意味します。この期間を〈中有〉と呼ぶことから、一般的には〈中陰〉と〈中有〉は同義として用いられています。 〈中有〉の本来の意味は、輪廻の過程を四種に分けた〈四有〉うち、〈生有〉(生まれる瞬間の存在)、〈本有〉(生まれてから死ぬまでの存在)、〈死有〉(死ぬ瞬間の存在)、〈中有〉(死んでから生まれるまでの存在)の一つなのです。 〈中有〉にとどまっている期間の長さは、現代の日本においては古来インド仏教以来の説に基づき四十九日間とされています。 しかし、中国においては古来インド説を受けながらも、十世紀頃に『仏説預修十王生七経』が撰述されると、この経の説く十王信仰(死者の魂は死後、冥土の旅をして、十人の王の関所を通り、審判を受けなくてはならないという説)に基づき、中陰の期間が三年とされるようになりました。これは儒教の「三年の喪」の概念に則ったものと考えられ、その結果中陰の法要として百ヶ日・一周忌・三回忌が加えられ、七七日と合わせて十回の法要が営まれるようになりました。この追善法要は、故人が閻魔大王をはじめとする十王の元で、生前の行いを審判される際、故人がより良い転生先に生まれ変われるように、遺族が故人に回向して生前の罪業を軽くしようという意味合いで行われるものです。 さらに日本に伝わってからは、中世に起こった十三仏信仰により、七回忌・十三回忌・三十三回忌が追加され、三十三回忌までが追善法要を行なう期間との考えが広まりました。この考え方は、『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』に説かれているもので、中国で生まれた十王に三十三回忌までの裁判官の三王が追加され、それぞれに本地垂迹説に則った十三の本地仏が当てがわれたものです。 このように、インドでは最長四十九日とされている中陰(中有)の期間は、中国では三年、日本では三十三年と延長されることとなったのです。 では、わが臨済宗においては、中陰の長さはどのように認識されていたのでしょうか? 貞享元年(1684)に無著道忠禅師が撰した『小叢林略清規』の「葬儀通弁」条には、 七七日の間に行われる亡者の供養は、中陰の間(死者は)七日毎に(中有の世界の中で)転生するので、その都度に読経などを行えば、(死者に)冥界での福を積ませることができ、(最終的に) より良い場所に転生することが出来るという経説に基づいている。 と述べ、四十九日を中陰の期間と認識しています。 それを裏付ける典拠として無著道忠(1653〜1745)禅師は、自著の注釈書『小叢林略清規証解』には『倶舎論』巻九や、義堂周信禅師が室町幕府第三代将軍の足利義満の正室である日野業子の叔母に当たり光厳天皇の妃である日野宣子の為に行なった五七日の陞座説法(しんぞせっぽう)が載せられています。 *無著道忠(1653〜1745)--宗門史に精通した江戸時代の妙心寺の住持。 *義堂周信(1325〜1388)ー-室町時代中期の中国文化に通じた臨済宗夢想派の僧侶。 *陞座説法 --高座に上って行なう説法のこと。 義堂周信禅師は、陞座説法の中で 中陰とは〈中有〉をいう。『瑜伽師地論』に依れば、人は死して後、〈中有〉の身となって七日每に、転生先を決める機会があるが、七日間で決まらなければ、また死んで生まれ変わり〈中有〉の身となる。このように生まれ変わり死に変わりして、七七日にして必ず転生する。そのために、七日每に斎を設けて故人の冥福の為の追善を行なうのである。これを「斎七(さいしち)」という。(累七とも) 『義堂和尚語録』巻二 このように臨済宗門では七七日が追善供養として行なわれていましたが、さらにその対象を僧俗に限ることなく、広くそして古くから行なわれてきたことが諸録から窺えます。たとえば、七朝の帝師と言われた夢窓疎石禅師(1275〜1351)は高峰顕日禅師下の同門で、弟弟子に当たる元翁本元禅師の仏事法語において、 元翁和尚は俄かに遷化され、本日、中陰も尽七日の忌日を迎えた。 『夢窓国師語録』「元翁和尚尽七日の請」条 と述べています。ここでいう尽七日とは、七日每の忌斎の日が尽きる日、すなわち満中陰の四十九日を指します。前出の無著道忠禅師が撰した『小叢林略清規』の巻下の「亡者忌回向」条に、七七日を「尽七日之辰」と呼秒していることからも、尽七日が四十九日と認識されていたことは明らかです。 ほかにも禅の記録では七七日を尽七日とする例は多く見られ、德芳禅傑禅師が土岐持益の四十九日に唱えた香語は「承国寺殿尽七日拈香」(『西源徳芳和尚語録』)と題されているし、雪江宗深禅師が細川勝元の四十九日に行なった上堂は「龍安寺殿尽七陞座」(『仏日真照禅師雪江和尚語録』)として禅師の語録に収められています。尽七日は、「断七日」(悟渓宗頓禅師『虎穴録』「玉雲寺殿断七日拈香」条)などと秒されることもあり、いずれも 中陰の期間は四十九日間であることが共通の認識であったと思われます。 このように在家の中陰法要においても、拈香の香語が唱えられ、塔婆が立てられていたことは事実です。ただ特筆すべきは、義堂周信禅師は関東管領であった上杉能憲の中陰仏事に当たり、弟子たちに対して次のような督励を行なったということです。 本寺・報恩寺開基であられる能憲公の中陰仏事は,力を尽くして勤修せねばならぬ。それは我々が身口意を慎んで仏事を務めねば、冥界におられる能憲公に群魔の災いが及ぶことになるからだ。皆の者、心を尽くし私に助力してこの仏事を成し遂げよ。私も病身であるとはいえ、香を焚いて『華厳経』八十巻を諷経し、開基の恩に報いんこととする。皆もそれぞれに勉めよ。 |
(『空華老師日用工夫略集』「永和四年(1378)四月二十三日」条) およそ、六百五十年前に行なわれた義常禅師の厳格な訓戒は、 中陰仏事を通して檀信徒への教化をすべき我々宗門人のあるべき姿を端的に示していると言えましょう。 |
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