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2004年にノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイさんは、ケニアの環境副大臣を務めた方でした。貧しい農家に生まれながらも、アメリカやドイツに留学して生物学の博士号を取得する一方、祖国の貧困や環境破壊を救うために「グリーンベルト運動」という植林運動を開始し、4000万本にも及ぶ苗木を植える活動を推進されたとのことです。ノーベル平和賞は、彼女のこうした長年にわたる活動が評価されたもので、環境分野では初めての平和賞であり、またアフリカの女性としても初めてのノーベル賞ということで、話題になりました。

このワンガリ・マータイさんは、受賞の翌年に来日した際「もったいない」という日本語に出会って大変感銘を受け、「MOTTAINAI」を環境を守る世界共通語として広めようと、活動しておられます。

日本で昔から使われていた「もったいない」という言葉が、地球環境を守るための世界的なキャンペーンに用いられるというのは、大変光栄なことには違いないのですが、外国の人に認められなければその価値に気付かないというには、情けない話でもあります。

「もったいない」は、現在では「勿体ない」と書き、一般的には「有用なものを無駄にして惜しい」という意味に用いられていますが、もともとは「勿体無い」であり、「物のあるべき姿、本来の価値を無にする」という仏教語から来たものなのです。大量生産、大量消費によって発展する経済原則の中で、私たちの住んでいる国は恐ろしいほど物を粗末にする社会になってしまったのです。日本では、一日に捨てられる食べ残しが数百万トンにも上ると言いますが、一方では飢餓に苦しむ国があるのも事実です。

「もったいない」という言葉の本来の意味は、単に無駄にするのが惜しいとか、有効に生かされずに残念だとか、いうことではありません。この言葉は、あらゆるものの本来あるべき姿を見失っていることへの反省でなくてはならず、全ては授かりものであるにもかかわらず、それを我が物と勘違いしている私たちへの厳しい警告であると受け止めるべきなのです。

『法句譬喩経(ほっくひゆきょう)』の中に

一つとして「我がもの」というものは無い。全ては皆、ただ因縁によって自分に来たものであり、しばらく預かっているだけのことである。だから、一つのものでも大切にして、粗末にしてはならない。

と、説かれています。ここで言う「一つのものでも大切にして粗末にしない」ということは、「ケチケチと倹約せよ」ということではありません。「ものを大切にする」ことと、「物惜しみする」こととは全く異なります。それは『正法眼蔵』の中に出てくる、曹洞宗の開祖・道元希玄(ドウゲンキゲン・1200〜1253)と永平寺第二世となった弟子の孤雲懐裝(コウンエジョウ・1198〜1280)との対話によく示されています。

ある時、弟子の懐裝が、師である道元に尋ねました。

「古い衣を繕って捨てないようにするのは、物惜しみする心に似た所があります。また、古いもの捨てて新しいものを用いんとすれば、それは新しいものを貪り求める心ともなります。この二つの心は、どちらにも咎があるように思えますが、どのように考えたら良いでしょうか?」

これに対し、道元は

「物惜しみの心と貪りの心と、その二つの心を離れさえすれば、どちらも間違いではない。しかし、破れた衣は繕って久しく使うようにし、新しいものを貪らないようにするのが良かろう」

と、答えています。

要するに、効率的であるか経済的であるかということではないのです。縁あって戴いたものを自分のものと思い違いをすると、そこに〈我がもの〉という執われが生じ、それが私たちを悩ませる原因となるのです。そのことに気づき、全ては戴きものであったという境地に目覚めた時、本当にものの見方を転ずることができたと言えるのです。

以前、ある小学校で先生が、給食の時間に子供たちに「いただきます」と言うようにと指導したところ、「給食費を払っているのに、『いただきます』と言わせるのはおかしい」と抗議した親がいたという記事が新聞に載り、驚かされました。その親は「いただきます」という言葉を、どのような意味だと思っているのでしょうか?。誰かが無料で恵んでくれた食物だから、その人に対して「いただきます」と言うのだとでも思っているのでしょうか?。日本人が昔から大切にしてきた「いただきます」という言葉は、決してそんな意味ではありません。

私たちが、いただいているのは《物の命》なのです。誰が作った物であれ、「大根さん、あなたの命をいただきます」「お魚さん、あなたの命をいただきます」と手を合わせることにより、私たちの今日の命は、多くの《物の命》の布施の上に成り立っているのだということを教えられてきたはずです。

給食費を払っていると言っても、それは作物を栽培してくれた農家や、魚を捕ってくれた漁師さんたちの手間賃であり、あるいはそれらを運んでくれた人たちの運賃や調理してくれた人たちの手間賃でしかありません。

野菜や魚自身に対しては、一銭も払っていないのです。この無限の恩恵の中に尊い命を授かったことに気づき、「ありがたいことだ。いただきます」という感謝の心を持って手を合わせることがたいせつなのです。

お金を払ったんだから、食べようと捨てようと自分の勝手だ、という考え方には、《物の命》に対する感謝がありません。自分が今、こうして生きていられるのは、無限の恩恵のお陰だということを忘れてはならないのです。
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