小学生を対象としたサマースクールで、百人ぐらいの子供が集まりました。その子らに、
「君たちの命は、誰のものだと思う?」
と尋ねると、ほとんどの子が
「僕の命は、もちろん僕のものです」
「私の命は、私のもの」
などと、異口同音に答えました。そこで、
「ほな、魚の命は誰のもの?」
と尋ねると、
「魚の命は、魚のもの」
と、言うので
「ほな、どうして魚を食べるのかな?」
と、尋ねると、子供たちは答えられません。
しばらくして、一人の女の子が言いました。
「あのう、お金を払っているから、食べていいんです」
「そうかな?。お金は魚に払ってるわけちゃうやん。お金は、漁師や魚屋さんがもらうんやん。おかしい思わへん?」
「…………」
子供たちは、答えられません。そこで言いました。
「あんな、君らの命は君ら自身のもんちゃうんやで」
「ほな、誰のもんなん?」
「君らの命は、君らのもんちゃうんやで。命は、仏さまのもんなんや。君らは、仏さまから命を授かっているだけなんや。同様に、魚の命も魚のもんちゃうんやで。魚の命も仏さまのもんなんや。それを魚が授かってるだけやねん」
鶏にしても牛にしても豚にしても、みんな仏さまから尊い命を授かっているのを、人間が生きる為にいただくのです。ならば、菜食なら良いかというと、そうではありません。
人参にしろ大根にしろ、みんな大地に根を張って養分を吸い上げて生きているのをこいでしまうのですから、野菜の命を奪っていることになるのです。
私たちは、食べずには生きられないので、自分たちが生きる為に、他の尊い命を譲ってもらっているのです。言い換えれば、命の【布施】を受けているわけです。
「だから、食べられるものの命に感謝して、『いただきます』と手を合わしてから食べるんだよ」
と、教えました。子供たちは、みんな納得してくれました。
私たちの命は、自分のもののようであって、実はそうではありません。命というのは、肉体(色)と精神(受・想・行・識)から成り立っているのであり、これを仏教では【五蘊(ごうん)】と言います。これは、みな授かったものであり、自分のものではありません。
原始経典の説一切有部の優陀那品 Udanavarga にも、
「『私には子どもがいる、財産もある』と思いつつ、人はそのために悩み苦しむ。だが、自分ですら自分のものではない。どうして、子供や財産が自分のものであろうか」と、あります。
室町時代の禅僧で、奇抜な言動で「風狂の僧」として有名な一休宗純(一三九四〜一四八一)禅師も、辞世の句として
借用申す 昨月昨日
返却申す 今月今日
借り置きし 五つのもの 四つ返し
本来空に 今ぞ 基づく
と、言っています。
「借り置きし五つのもの」というのは、「地・水・火・風・空」のことです。このうち、「地・水・火・風」の四つは【四大】と言われ、古代のインド人は人間の体は【四大】でもって構成され、病気はそれらの調和が崩れた時に起こる、と考えていました。そこで、病気の状態のことを《四大不調》と言うのです。
一休禅師は、「死というのは、私たちが仏さまから授かった肉体(四大)を、仏さまにお返しして本来の【空】に戻ることだ」と言っているのです。つまり、肉体(四大)を授かっている間が、生きている時間なのであり、死ぬことは、授かっていたものを仏さまに返して【空】に戻るだけなのだ、と言うのです。ここがわかると、真の安心が得られるのです。
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