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日本臨床衛生検査技師会の田口薫氏によれば、脳死判定の基準は

一、深昏睡(痛み刺激に全く反応無し、開眼なし、発語なし、運動なし)
二、自発呼吸の喪失
三、瞳孔固定
四、脳幹反射の消失(対光反射など)
五、平坦脳波

の五つの確認事項があり、30分以上、脳波が平坦なままで、他の項目をみたした場合に、6時間の経過をみて変化が無いことを確認して「脳死」と判定するそうです。

しかし、吉田典史氏(埼玉医科大学総合医療センター神経内科)の論文によれば、脳死中の意識や記憶を持ち続けている場合もあるのです。どうして、そういうことが起きるのでしょうか?。

脳波計は文字通り、脳の働きを波形に描き出します。ものを考えたり夢を見たりする時、脳の中の神経細胞は電気信号をやり取りしており、脳波計はこの働きをとらえ、波形にして表します。脳が生きているかどうかを判別する重要な目安となるものです。脳死と判定される患者は、時間をおいた2度の脳波検査で、いずれも平坦脳波であることになっています。

脳死判定の脳波測定は、頭皮の上に脳波測定用の電極を設置しているため、記録される脳波は大脳表面から深さ5mm〜10mm程度の脳活動に限られます。それゆえ、脳波は脳の深部を測定しないと脳が活動しているか否かはわからないはずですが、現実にはそこまで行われていません。

こうした現実に、古川哲雄氏(千葉西総合病院神経内科)は、「脳死患者に本当に意識は無いのか?」という疑問を呈しています。

「臓器摘出のために皮膚に切開を入れると同時に、血圧の上昇、頻脈の出現することは1985年のWetzelの報告以来、よく知られた事実である。このような現象は、脳の一部に機能が残っていなければ起こり得ない。米国では脳死やそれに近い患者からの臓器摘出にモルヒネを使うようになった。脊髄反射を抑えるためだけならば、筋弛緩剤を用いれば十分であるのに、なぜモルヒネを使わねばならないのか?。他人に言えぬ不快感を感じて移植手術から手を引いた外科医や、脳死と判定することを嫌がり脳死判定を遅らせる傾向があるのはなぜか?。麻酔をかけるだけでは、解決し得ない問題である。脳死と診断された患者に100%意識が無いとは言えない、と考える神経内科はいる。インプットは入っても、アウトプットができない状態である可能性がある」

要するに、脳波計が反応しない脳死者であっても意識がある可能性はあるというのです。

頭皮に電極をつければ、その活動は脳波となって現われます。ところが、脳死になれば脳の活動は停止し、脳波が現われなくなり、脳波は平坦脳波となります。確かに平坦脳波は、大脳の死の判定には最も有力な客観的指標となるものです。(『改訂新版 脳死とは何か』)

しかし、普通の脳波測定器は、頭皮上の電気活動に対してのみ反応するわけですから、脳から頭皮にまで到達できた電気活動だけが計測されるのであり、頭皮まで到達しない電気活動は測ることができません。ですから平坦脳波でも、脳の奥の方は機能を失っていない可能性があるのです。実際、千葉県船橋市立医療センターでは、「深部脳波測定機器」で頭蓋内脳波の活動が観察された時には、脳死と判定してはいけないとする『移植マニュアル』を平成9年に作りました。ですが他の医療機関では、脳がまだ生きているのに平坦脳波だからといって脳死にしている恐れがあります。

1983年、佐藤恵子さん(仮名)は髄膜炎の疑いで、救急車で新潟大学付属病院に運びこまれました。緊急入院の一時間後、佐藤さんは意識不明に陥り、自発呼吸が停止し、その後日本脳波学会の作成した脳死判定基準により、彼女は脳死と判定されました。この時、彼女は妊娠していました。出産の予定日は1ヶ月後、彼女が脳死状態となったのは、妊娠33週目に入った直後でした。しかし、分娩監視装置でおなかの赤ちゃんの状態を調べてみると、赤ちゃんはまだ生存していることが分かりました。

医師と家族は、「母体は駄目でも、何とか子どもは助けてあげたい」とし、赤ちゃんの生存を守るための医療が始まりました。脳死によって脳の機能が停止しても、昇圧剤や抗利尿ホルモンなどを投与することによって、脳以外の生体機能をある程度維持することができるのです。しかし、それにも限界があります。子どもの安全のため、医師たちは家族に帝王切開を勧めました。しかし、自然分娩による出産を強く望む家族の同意は得られず、そのまま推移を見守ることとなったのです。

ところが、その日の午後、母体に陣痛が始まり、自然分娩により1450グラムの女の子を出産したのです。これは脳死判定から7時間後のことでした。脳死状態に陥った患者が子どもを出産したという事実は「だから脳死は人の死ではない」とする論の大きな論拠の一つとなっています。

しかも、佐藤さんの事例での出産が、帝王切開ではなく自然分娩であることに注目すると、更に別の問題がクローズアップされてきます。というのは、分娩の一連のプロセスは視床下部によって調整されているため、視床下部機能を停止していたならば、そもそも自然分娩は不可能なのです。つまり、脳死判定後も佐藤さんの視床下部は、明らかに生きて活動し続けていたのです。

視床下部は、視床や下垂体などの脳組織とともに間脳の一部であり、大脳と脳幹の間に位置しています。大きさにしてわずかに小指の先ほど、およそ4gの小さな組織ですが、この小さな部分に生命活動にとって重要な働きの数々が濃縮されているのです。

視床下部は、人間の原始的な本能欲求の中枢でもあります。出産行動のほかにも、摂食行動、性行動、哺乳行動、攻撃行動、逃避行動など、個体維持と種族保存に必要な本能の中枢は視床下部にあり、これらの行動の調整も行っています。
更に視床下部は、人間の意識にも重要な役割を果たしています。脳神経学者W・ベンフィールドは『脳と心の正体』の中で、「大脳皮質は意識の破壊を伴うことなく広範囲の切除を行うことができるが、脳幹の上部はごく一部が傷つけられるか、働きを妨げられただけで、意識の完全な消失を招くことが分かってきた」とし、「意識を支える不可欠の実体は大脳皮質以外の部分おそらくは間脳(脳幹の上部)に位置している」としています。

また、理化学研究所の国際フロンティアシステム長の伊藤正男氏も、視床下部について「まだよく分かっていない部分もたくさんあるが、視床下部が残れば低レベルだが、意識はある」と語っています。こうしてみると、佐藤さんの事例のような、脳死判定後の視床下部の生き残りは、無視できない重要な問題であることがわかるのです。

新潟大学の脳研究所の生田房弘教授によれば、厚生労働省の脳死判定基準を満たした後でも、視床下部とその周辺が生き残っていることは、かなり分かってきているとのことです。具体的には、脳死判定の4日後でも、およそ4割の事例において認められている、というのです。

脳死認定の場合、脳波の測定は時間をおいて2度行われますが、佐藤さんの場合は平坦脳波しか現われなかったはずです。それでも、脳死判定の7時間後に自然分娩できた、ということは、佐藤さんには低レベルではあっても意識があったということなのです。

元信州大学教授で脳科学が専門の大木幸介氏は、『脳がここまでわかってきた』の中で「視床下部というのは1cm角ほどの小さなものだが、この視床下部こそ、人間の脳のほぼ中心にあって、人間精神の根源にもなり『中心脳』というべき働きをしている重要な脳なのである」と、しています。
脳死だけでなく、心停止などによる一般的な死亡でも、視床下部が生きている場合があることが今日では認められていますが、それゆえ脳死患者からの臓器摘出に、麻酔が使用されているのです。患者は死んでいるのですが、専門家の間では恐怖感や痛いという感覚は、まだ残っていると考えられているからなのです。
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