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私たちは、茶柱が立つと「今日は縁起がいいぞ」と思いますが、その湯呑みを食事中に落として割ると、にわかに渋い顔になります。多くの人は、茶柱が立ったり茶わんを割ったりという日常よくある出来事を幸・不幸の前ぶれと考えるのを《縁起》だと思っているようです。この思い込みが深まると《迷信》になってしまいます。そして、前兆の悪いのを吉兆に変えるために《縁起直し》に夢中になり、《迷信》はますます深まってしまいます。

釈尊は、その教えの中で「縁に触れて、いろいろの心となる(心が起きるのだ)」と説いています。最初から、よいことがある・悪いことがあると決めた心があるわけではありません。前出の場合、茶柱が立ったり、湯呑みが割れたりというきっかけで、幸先がいいとか悪いとかの心が起きるのです。そのきっかけや条件を、仏教では【縁】といいます。

この世にあるすべての存在は皆存在するための根本の原因【因】があって、その【因】に無数の【縁】(きっかけ・条件》が幾重にも作用し、関わりあって、初めて存在するという結果【果】を生じるのです。【因】が有っても、その【因】に働き掛ける【縁】が無ければ、【果】は生じません。すべては【縁】の作用によって起こるので、《縁起》といいます。《縁起》の思想は仏教の基本的な世界観です。

たとえば、蓮の実(種)は蓮が咲くための根本的な【因】です。しかし、その実を机の上や箱の中にしまっておいたのでは、いつまでたっても蓮にはなりません。それは「大賀蓮」がいい例です。植物学者の大賀一郎博士は、二千年前の蓮の発芽に成功しました。栽培という【縁】に会えなかった蓮の実は、二千年もの間、蓮になれなかったのです。その蓮の実が蓮になれたのは、《栽培の縁》です。

しかし、一口に《栽培の縁》と言っても、太陽の光・水・空気・土・肥料・気候などの多くの条件やきっかけ(契機)が必要です。このことは人間の教育にも通ずる法則です。すべての物事・現象は、みんな何かの【因】と、その【因】に働きかける無数の【縁】との関わりあいによって【果】を生じるので、これを《因縁の法》あるいは《因果律》といいます。言い方は違いますが、《縁起》と主旨は同じです。

釈尊在世の頃の古代インドには、多くの宗教や哲学の派が有りました。その世界観や人生観の多くは、《神による創造説》でした。そうした中で、釈尊のみが深い悟りの境地から、《神による創造説》では無く、《神によらない縁起説》を説かれたのです。

もっとも、因果説を唱えるインド思想は他にもあったのですが、それらは皆「【因】は神から与えられた宿命的なものである」という考え方でした。しかし、釈尊の《縁起説》は宿命論ではなく、【縁】の作用によって【因】の内容を変えることができるとする所が決定的に違います。

たとえば、葡萄の種は【因】で、【縁】があれば葡萄に育つ可能性を持つことは前述の蓮と同じです。しかし、葡萄が蓮と違うのは、その果実を私たちが食べることです。食用には種の無い方が好まれます。そこで種無し葡萄が開発されました。これは、人間の栽培技術の【縁】によるものです。葡萄の種という【因】は、どうにもならない固定した宿命的なものではなく、【縁】によって変えることができるのです。

人間も同じことで、悲しみや苦しみは変えられないものでは無く良き導きという【縁】にあえば、暗い人生も明るくできるのです。また、ものの言い方・ものの考え方・身のこなし方などの自分自身の栽培の【縁】によっても変身できるのです。ですから、仏教では【因】よりも【縁】を重んじ、【縁】の中に【因】を包括して「一切は【縁】より起こる(生じる)」と説きます。

固定したものは何も無く、【縁】によって変わるし、また【縁】によって変えることができるという教えは、「一切皆空(すべてのものは皆、【空】である)」という真理に通じます。大空のように、障壁となるものは何も無く、執われたり・こだわったり・偏ったりせず、またどこにも止まらない、大いなる自由が【空】です。

一切の物質や現象において、固定されているものはありません。すべては【縁】によって生ずるのですから、【縁】が有れば生じるし【縁】が無ければ減するのであって、永遠に変わらない存在は無いのです。これを哲学では「実体が無い」と言い、仏教では「すべては【縁】によって消滅する」と言います。

『首楞嚴経』は、「【縁】に触れて、いろいろの心になるのであるから、一つの心も乱せば醜い煩悩となり、治めれば美しい悟りとなることを知って悟りに入った人もある」と説き、【縁】に触れることの大切さを説いています。そして、さらに【縁】を大切にするのみならず、良い【縁】に育てることが重要です。

作家で詩人の高見順の詩に、『葡萄の種』があります。
葡萄に種子があるように
私の胸に悲しみがある
青い葡萄が酒になるように
私の胸の悲しみよ
喜びになれ

青い味の未熟の葡萄が発酵して、おいしい葡萄酒になるまでには多くの【縁】が必要です。何よりもまず、長い時間が必要です。悲しみのマイナスの価値が、喜びのプラスの価値に転ずるためには、やはり心の発酵を待たねばならないのです。発酵という複雑な化学作用は、悪い【縁】を良い【縁】に昇華しようと願う私たちに、大きな示唆を与えてくれます。

酵母が、自分の持つ酵素により糖類などの有機化合物を分解するのは、教えを求める私たちの心が、自分の心中のエゴを分解するのと似ています。

この泥が あればこそ咲く 蓮の花

です。泥の逆縁が、悟りの花を咲かせてくれるのです。
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