他の法話へ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40
| 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60
| 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 | 80
| 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | 88 | 89

虹鱒(にじます)という魚がいます。鮭科の淡水魚で、体の横に赤い点線状の模様がある魚です。

生物学者によると、まじめな働き者の虹鱒は、川の中央にいるそうです。そこは、上流から多くの餌が流れてきます。ですから、川の中央にいる虹鱒は、多くの餌を食べることができます。

ところが、澱(よど)みにいる虹鱒は、あまり餌を食べられません。澱みには、わずかしか餌が流れて来ないからです。でも、澱みにいる虹鱒は、川の流れがそれほどきつくないので、じっとしていれば体力をあまり消耗しません。エネルギーの消耗が少ないので、逆に澱みの虹鱒は少しの餌でも足りるのです。

それに反して、川の中央にいる虹鱒は、川の流れが激しいので、流されないようにするのに、たくさんのエネルギーを消耗します。したがって、川の中央にいる虹鱒は、そのエネルギーを補給するためにも、たくさんの餌を食べなければならないのです。

さて、川の中央にいる働き者の虹鱒と、澱みにいる怠け者の虹鱒と、どちらの生き方が賢明なのでしょうか?。結論から言うと、どちらでも良いのです。

仮に、みんなが川の中央で生きようと指向(しこう)すれば、たちまち生存競争が起き、共倒れになりかねません。みんながみんな、川の中央では生きられないのですから、澱みに追いやられた者は、エネルギーは消耗するわ、餌は十分食べられんわで、一気に衰退(すいたい)してしまいます。

戦後の日本は、典型的にこの生存競争型であったのではないでしょうか。子供は子供で熾烈(しれつ)な受験戦争に追いやられ、大人は大人で猛烈社員でなくてはならず、みんなヘトヘトになっていました。経済的には年々豊かになりながらも、多くの人が心のゆとりを失っています。

私たちは今こそ、生き方について真剣に考えなくてはなりません。従来の日本人が持ち続けていた《もっともっと》という指向性を、やめなくてはなりません。「もっと豊かになりたい」「もっと出世したい」などと考えるということは、今の自分では駄目だと、現在の状態を否定しているのです。でも、そんなふうに自分を否定するのは、やめましょう。《否定の哲学》は捨てなくてはなりません。

釈尊(しゃくそん)は、『涅槃経(ねはんぎょう)』の中で、

「一切衆生(いっさいしゅじょう)、悉(ことごと)く仏性有り」

と、説いています。もろもろの生きとし生けるもの《衆生》(しゅじょう)は、すべて仏性(ぶっしょう)《仏の性質》を授かっているというのです。

善人だけが仏の子で、悪人は仏の子ではないのでは、ありません。裕福な人が仏の子で、貧乏人は仏の子ではないわけでは、ありません。蝶やてんとう虫が仏の子で、蛾や蝿はそうではないというのでも、ありません。益虫(えきちゅう)も害虫(がいちゅう)も、すべての生き物が仏の子です。

私たち凡夫(ぼんぷ)は、とかく目に映る美醜(びしゅう)・大小・優劣(ゆうれつ)・善悪などといった差別にとらわれてしまいがちです。しかし仏の世界にはそんな差別は、一切無いのです。仏の目から見れば、すべてのものが、あるがままで肯定されているのです。怠け者は、怠け者のままで肯定されているのであり、病人は病人のままで肯定されているのです。

こう言うと、「病気のままでいいわけが、ないやないか!」という方があるのですが、もちろん病気にならない方が良いに決まっています。けれども、今現在病気であるならば、病気にならない方が良かったと考えても、無意味ではありませんか?。今は病気であるのだから、これで良いのだと考えるべきです。

仏教は、現在の自分を肯定するところから始まります。

釈尊は、

過ぎ去れるを 追うことなかれ。
未だ 来たらざるを 念(ねが)うことなかれ。
過去、そはすでに捨てられたり。
未来、そはいまだ到らざるなり。
されば、ただ現在(いま)するところのものを、
そのところにおいて よく観察すべし。
揺らぐことなく、 動ずることなく、
そを見きわめ、そを実践すべし。
ただ 今日(こんにち) 作(な)すべきことを熱心になせ。
誰か 明日 死のあることを知らんや。


と、説いています。

「病気にならない方が良かった」などと考えても、病気になったのは事実であり、なってしまったものを、否定はできないのです。すでに過ぎ去った過去を追っては、いけないのです。

そして、未来を求めてもいけません。「病気を治して欲しい」という心情はわかりますが、現在病気であるならば、病人である事実としっかり向かい合って生きなくては、なりません。これが釈尊の説かれた「今現在ある自己の肯定」なのです。

そして、自分が今の自分のままで良いならば、他人も今の他人のままで良いわけですから、あなたは他人のあるがままを肯定しなくてはなりません。

※ここで言う他人とは、自分以外の全ての人を指します。したがって、配偶者や子供も他人です。

人は皆、それぞれのあり方で生きています。画一化(かくいつか)する必要は、無いのです。能力も感性も千差万別(せんさばんべつ)です。神輿(みこし)として、かつがれて力を発揮するタイプもいれば、神輿をかついで能力を発揮するタイプもいます。皆、同じではないから良いのです。もしも、同じだったら、たちまち熾烈(しれつ)な生存競争が起きてしまいます。

向上心を持って、努力することは大切ですが、理想(目標)をしがらみに変えてしまっては、いけません。「現状では駄目だ、何としても理想(目標)に到達せねば…」という現状否定の哲学を捨てることです。そんなふうに、自分を否定してはいけません。

私たちは、みんな仏の子なのです。今の状態のままで、仏の子なのです。私たちは、ちゃんと自分を肯定しなければなりません。

「仏さまが、自分をこのように生かして下さっている。有り難いなぁ…」という感謝の気持ちを持つことです。外にばかり眼を向け、「あれも、これもなくては」と考えるのでなく、内に眼を向けて、今現在与えられているものに感謝をできるようになると、毎日豊かな心持ちで過ごせるようになります。

「好むと好まざるにかかわらず、すべては仏さまが与えて下さったものなのだ」という肯定の哲学で過ごせるようになると、すべてが良い方向に向かっていくものなのです。
他の法話へ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40
| 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60
| 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | 78 | 79 | 80
| 81 | 82 | 83 | 84 | 85 | 86 | 87 | 88 | 89