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伝教大師・最澄の弟子である光定が、最澄の生涯の言行を集めたものが『伝述一心戒文』です。この中に「道 人を弘め、人 道を弘む。道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」とあります。

「道心の中に衣食あり」とは、「一心に仏の教えを求めようとする思いがあれば、衣食住は自然に備わってくるものである」ということであり、また「衣食の中に道心なし」とは、衣食住を主にしていると教えは求められない」ということです。

つまり、道を求めることに命をかけるという気迫が無ければならないということであり、〈ゆとりができたから学んでみるか〉というような甘い気持ちでは道は求められないのだ、というお諭しなのです。

そして、真に道を求めた人に大衆はついて行き、その大衆が更に道を弘めていく、というのが前半の「道 人を弘め、人 道を弘む」ということなのです。ちなみに、「弘める」と言うのは「仏法を弘める」ということです。

世間にはよく「私ほど苦労した者はいない」と言われる方がありますが、では両手両足が無い人からすれば、その苦労とはどのようなものでしょうか?。

中村久子さんは、明治三十年に岐阜県高山市の畳職人釜鳴栄太郎さんと妻あやさんの長女として生まれました。この夫婦には長い間子供がありませんでしたので、彼女が生まれた時の両親の喜び様はたとえようも無かったと言います。

ところが彼女が二才の時、足の甲が黒ずみ凍傷(霜焼け)になり、この凍傷がもとで突発性脱疽(高熱の為に肉が焼け、骨が腐っていく病気)になり、左手首・右手首・左足は膝と踵の中間・右足は踵から切断しなければなりませんでした。

この時から彼女の「自らの無限の力を信じた戦い」が始まります。彼女が七才の時に父と死別し、厳しい生活環境の中で母あやさんのとても厳しい教育が始まります。

彼女が十才の時、手足の無い久子さんに対してお母さんが着物を与えて、「ほどいてみなさい」と言われました。久子さんが「どうしてほどくのですか?」と聞くと、「自分で考えてほどくのです」と言いました。お母さんは一つのヒントも与えず「言いつけたことができなければ、ご飯は食べさせません。人間は人の役に立つために生まれてきたのです。できないことはありません」と、突き放しました。お母さんにとっても、さぞや辛かったことでしょう。

しかし、この厳しい教育のおかげで彼女の知恵を生み、久子さんは口で糸を通し、口で字を書き、口で鋏を使えるようになったのです。しかし、そうなるまでには弟との生別れや母の再婚などの苦労が相次ぎました。

久子さんは二十才の時、名古屋の見せ物小屋で「だるま娘」として、短冊や色紙に絵を描いて売る芸や、針に糸を通しその糸を口で結んで見せる芸人の道に入りました。その後、書家・沖六鵬に出会い、書の手解きを受けました。

彼女が三十四才の時、座古愛子女史に出会って生きる方向を見つけ、その四年後に中村敏雄と結婚しました。彼女が四十一才の昭和十二年四月十七日、東京の日比谷公会堂で三重苦(盲聾唖)の聖人ヘレン・ケラーと対面しました。その時の様子を彼女は次のように語っています。

「ケラー女史は私の側に寄り、熱い接吻をされました。そして、そっと両手で私の両肩から下へ撫でて下さる時、袖の中の短い腕先に触られた途端、ハッとお顔の動きが変わりました。下半身を撫でて下された時、両足が義足とお分かりになった。再び、私を抱えて長い間接吻され、両目から熱い涙を、私は頬を涙に濡らして女史の左肩にうつ伏してしまいました」

当時の新聞にケラー女史は「私より偉大な人」と絶賛したと書かれています。

その後、夫との死別、再婚、仕事の苦労と幾多の苦難の中に生き抜き、昭和二十五年(1950)五十四才の時、高山身障者福祉協会が発足し初代会長に就任、六十五才の時、厚生大臣賞を受賞しました。六十九才の時に母を顕彰し、また身障者の生きる力の糧として、高山国分寺境内に悲母観世音銅像を建立しました。手足の不自由なお子さんを持つご両親が全国から集まって来てお参りされています。

久子さんは、昭和四十三年(1968)三月十九日、高山市天満町の自宅において七十一才で亡くなりました。この方ほど命がけで教えを求められた方は少ないでしょう。彼女の生涯を知れば、「私は苦労した」などとは言えなくなってしまいます。

久子さんはある日、娘の富子さんが「恩返しができない」と言われた時、富子さんに手紙を書かれました。その手紙には、

親の恩は子に返して行くもの
子の無い貴女は皆様に返して行きなさい
人様にしてあげられる時が人間最高の幸せ
してあげたいと願っても
してあげられない時が多いもの


と、あります。

富子さんは、この手紙を抱きしめて生きておられました。命がけで道を求められた人の言葉ですから心に響きます。久子さんに学んで自分の人生を変え、またその人に学んで生き方を変えた人も少なくありません。まさに「道 人を弘め、人 道を弘む」です。

久子さんは多くの歌を残しておられますが、その代表作に

手は無くも 足は無くとも み仏の
そでにくるまる 身は安きかな


という一首があります。一心に道を求めた人でないと、「安き」という世界には浴せないのではないでしょうか。

食べて生きていくことと、教えを求めて生きていくことは、別々のものではなかったのです。仏法に生きる人たちは、みな悠々と輝いて生きています。
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