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『風土』(和辻哲郎著・岩波文庫刊)に「日本人は変わった性格だ」とあり、それは《モンスーン型気質》と呼んでいいと書いてあります。それは、《日本人はコツコツ努力するのに諦めがいい》と言うのです。この《コツコツ努力するのに諦めがいい》というのを欧米人に説明しようとすると骨が折れます。

普通、コツコツ努力する人というのは諦めない人なんです。だから、コツコツ努力するのに諦めがいいというのは理解できないと言うのです。コツコツ努力することを英語で言うと、tenaciousとなるんですが、これを悪い意味に使うと執念深い、諦めないという意味になります。だから、アメリカ人には、コツコツ努力するのに諦めがいいってのは理解できないわけです。

たとえば、日本人は台風が来る前に窓に目張りをしたり、壁を補強したりします。豪雪地帯においては、雪吊りや窓が破られないように補強をしたりします。そういうマメな努力を凄くするわけですが、いざ予想外に大きな台風が来たり大雪が降ると、もう諦めるしかないだろうと考えるわけです。

確かに日本という国は、火山列島と言われる通り地震が多く、それに伴う津波もしばしば発生するわけです。今までで最高の津波というのは、江戸時代の1770年代に小笠原諸島に来た87メートルだそうです。ちなみに、世界で一番高かったのはアラスカに来た津波で、約500メートルあったそうです。こうなると、もはや防潮堤などというレベルではなく諦めるしかない、というのもわかります。

東日本大震災で亡くなられた方が大勢いらっしゃる(平成28年3月11日時点で15,894人)わけですが、5年経過したこの時点でもまだ行方不明者が2,561人もいらっしゃるんです。天災の場合には、行方不明でも死亡届は出せるんです。家族で相談して「一応亡くなったことにしよう」と言うと、行方不明者から削られて死者に数えられます。しかし、丸5年が経過した時点においても、まだ死亡届が出されていない人が2,561人もいるんです。つまり、行方がわからない人の家族が身内の死を認めていないわけなんです。

震災から2ヶ月あまりが経過したある日、まだ娘が帰って来ないと言うお父さんに、

「まだ戻って来られない娘さんは、今どうしていらっしゃるとお考えですか?」

と尋ねた人がいました。すると、そのお父さんは

「津波にあったショックで記憶喪失になり、自分が誰だかわからない状態で知らない浜に流れ着き、知らない人に助けられて、今は別の名前で暮らしているかも知れないじゃないですか?」

と言われたそうです。

たしかに、そういう可能性も絶対無いとは言えません。しかし、針の穴を通すような話です。この話をされたお父さんの心情は、痛いほどわかります。そうでも思わなければ、前を向けないんです。震災を忘れることはできません。しかし、忘れなければ前を向いて頑張れない、この忘れる事と忘れない事という、相反することを両立させているのが日本人だと思うのです。

この【無常】というものの見方が日本に浸透しだしたのは、平安時代だといわれています。世の中がどんどん移り変わり、天変地異で亡くなる人も多い中で、人間がその現実に対応する為には、さっきまでの自分を断ち切って、一から出直すことにしなければなりません。そこで、「出直し」という意味で行われるようになったのが《挨拶》《お辞儀》です。

日本人の立ち居振舞いに関する最古の書物は『魏志倭人伝』だとされ、三世紀頃の日本人の様子が記されています。それによると、当時の日本人は《お辞儀》をしません。身分の高い人(大人)同士が道で出会うと、両手を打つのです。当時は身分の高い人の挨拶は、手を打つことでした。

それに対し、身分の低い人が身分の高い人と出会った時は、高い方はそのままです。身分の低い方は片膝立ち(これを跪坐(きざ)という)、または両手をついて跪拝(きはい)という拝をしました。もっと丁寧な場合には、両膝をついて両手をつく匍匐拝(ぶどうはい)をしました。この時、立っている身分の高い側の人が「あー」とか「うー」とか声を出したならば、「なにか話してもらいたい」という合図だったそうです。

しかし、身分によって挨拶が異なるというのは非常に厄介です。そこで、すぐ身分がわかるようにしようということから、聖徳太子が定めたのが《冠位十二階》で、十二色に色分けされたわけです。この時、一番上の大徳の色とされたのが《紫》なのです。これによって、冠の色を見れば上か下かがわかるようになったわけです。けれども、大化の改新の時に「身分によって挨拶を変えるのはやめよう」ということになり、「挨拶は立礼(いわゆるお辞儀)で統一する」ということになったのです。

ところが、これがなかなか徹底しなかったため、天武天皇(天智天皇の弟)が詔を出して「挨拶は立礼で統一する」と同時に、「跪拝(きはい)・匍匐拝(ぶどうはい)を禁ずる」としたのです。ですから、日本人がお辞儀をするようになったのは、西暦の680年代の天武天皇の詔から以降なのです。

この挨拶の言葉に関して、よその国と比較してみると、グッドモーニング(米・英)にしてもボンジュール(仏)にしてもニーハオ(中国)にしてもドブリーデン(チェコ)にしても、みな「良い」という意味が含まれています。

*グッド・ボン・ハオ・ドブリー いずれの国も[あなたにとって良い朝でありますように]という祈りが含まれています。

それに比べ、日本の「こんにちは」には、祈りが含まれていません。申し上げるまでもなく「こんにちは」は「今日は〜」から来ているわけですが、「今日は・・・」どうだって言うのでしょうか?。

実は「こんにちは」は、「昨日まではダメだったけれども、今日は新たな気持ちで前に向かって頑張りましょう」ということなのです。つまり、一番肝心な所は略されてしまったわけです。しかし日本語ではそうしたケースが少なくありません。

日本の国歌は「君が代」ですが、「千代に八千代に〜苔のむすまで」で終わっています。「苔のむすまで」なんだっていうのか?。言われなくたってわかるでしょう、って歌なんです。これも肝心な所は略されているわけです。

「こんにちは」の語源は能や狂言に残っている「こんにった」だそうで、これは室町時代から使われていたのが江戸時代になって「こんにちは」に変化したそうです。お辞儀も、立礼が生まれたのは奈良時代ですが、正座が発生したのは鎌倉時代後期で、一般に定着したのは茶道が普及した室町時代後期に入ってからなのです。

日本はその歴史の中で、挨拶にしてもお辞儀にしても形の異なるものが同時に進行してきた経緯があります。それゆえ、コツコツ努力はするけれども、すべては無常であり移り変わる存在なのだからいざとなれば仕方がない、という気質が培われたのだと思います。
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