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現代社会において、犬や猫に代表される様々なペットは、単に飼育する対象だけではなく、家族の大切な一員となっています。加えて、人生の伴侶となった動物たちとの別れから立ち直れない「ペットロス」という現象も、社会問題として取り上げられるようになりました。
そもそも仏教において、動物は六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)の一つである畜生に存在すると位置づけられています。畜生は、前世の悪業により死後に生まれ変わる動物の世界だ、と言います。この世界では弱肉強食を常とし、互いに殺し合い安住を得られることは無いと言います。人間によって課役や食用の為に、蓄養される生き物であるから<畜生>と呼ばれるようになったのです。この世界に生きる動物は、仏の教えを聞くことができないことから、直接的に解脱することは不可能であると定義されています。その為、仏教各派の宗門においては、動物やペットの供養についてそのニーズの高さや必要性は認識しながらも、統一された形は示されていません。 他方、日本においては、縄文時代や古墳時代の遺跡群から埋葬された形での犬の骨が発掘されたり応神天皇による犬の埋葬に関わる伝承など、動物をその死に当たって供養を行なうという歴史は古くから見受けられます。また、医学の進歩の為の動物実験や食料として大量消費された動物たちの菩提を弔う為、多くの大学病院や料亭・企業などで供養祭や法要が営まれていることも事実です。このようなペットではない動物の為の慰霊行為は海外では見受けられず、仏教の基本理念である「一切衆生悉有仏性」の思想が、日本独自に深く根付いた供養の形態と言えましょう。 禅僧と動物の関わりについては、中国においても語録などで確認することができます。たとえば、『無門関』の「趙州狗子」や「南泉斬猫」のような公案の題材として取り上げられる動物たちは当然祖師の目につく形で禅林内部に出入りしていたでありましょうし、『十牛図』などはまさに「牛」を主題としています。また、『景徳伝燈録』巻八「南岳西園曇蔵禅師」条には禅師が飼っていた犬に関する話頭が録されています。さまざまな動物が語録や公案などに取り上げられることは、中国においても禅僧たちが日常的に接触を持った上で、その中にはペット化されたものもいたには違いないでしょうが、その死後に葬儀などを行なった形跡は見られません。 これに対し、日本の禅僧は身近にいた動物たちを現代のペットのように大変可愛がりました。江戸時代の名僧 白隠慧鶴禅師は猫を飼育していたとされ、その様子は語録などに見受けられます。『荊業毒薬』巻一「冬夜小参」には、松蔭寺での修行の様子を述べる中で(佐子)という弟子の様子を 佐子はわが三毛猫にちょっかいをかけに来る野良猫に罠を仕掛けておる 『荊叢毒薬 乾』とあり、愛玩の三毛猫に加えて野良猫が松蔭寺に出入りしていたことがわかります。 更に白隠禅師には自らが「猫の巻物」と箱書きした墨蹟が残されており、諸書の人生訓を書き込んだ巻尾に六個の猫の足跡が残されています。松蔭寺における白隠禅師の大衆接化は、厳密を極めたと言われますが、日常底の一面が窺えます。 また、一休宗純禅師は六十歳当時、愛玩していた雀が死んだ際「尊林」と道号を与え、哀悼の偈頌を詠んでいます。現存する道号頌の墨蹟には次のように記されています。 私は一匹の雀を特別可愛がり飼っていた。ある日、忽然と死んでしまった。 愛雀を失った悲しみは、人との別れに倍するほどである。その死に当たっては、 人と同じように葬儀を執り行い、かつ「尊林」と道号を与え、ここに書して証となす。 あえて墨蹟として残したところに一休禅師の愛雀に対する強い哀悼の気持ちを知ることができます。 禅師は尊林の死後にも新たな雀を飼い、その死に至っても同じように「葉室」と道号を与えて懇ろに葬儀を行なっています。 また、東陽英朝禅師(1428~1504)は白毛の雌犬を傍らに置いて可愛がっていましたが、その愛犬との別れを詳細に語っています。 私は賢い犬を一匹飼っていた。毛が白いので梨花と名をつけた。私になつくこと十年であった。 文亀元年(1501)、七十一歳の十一月、ふと私の部屋の前に来て何やら別れを惜しむ風情であったのだがその夜、俄かに死んでしまった。そこで道白上座と戒名を与え、亡僧と同じように葬り、偈を作って悼む。 時には虚に吠え、あるいは実に向かって吠える生涯だったが、もとより虚も無ければ、実も無いのだよ。梨花よ、今やあらゆる羅籠から解き放たれた。 さあ、煩悩の炎の消えたところに行くがいい。 『少林無孔笛 訳注三』 この経緯を読むと、梨花が愛育された十年間は丁度東陽禅師の晩年に指しかかる時期に当たり、その最後には禅師自ら戒名を与え、人間と同様に偈頌をもって涅槃に赴かせようとするなど、愛犬に深い慈愛をもって接していたことがわかります。 加えて、東陽禅師は最晩年、住していた少林寺で飼っていた馬が死んだ際に<示衆>を執り行ったということが、禅師の語録『少林無孔笛』「少林寺語」に収録されています。<示衆>は、祖師忌や語録の開講などに際して行なわれるのが通常ですが、馬のような動物の死が契機で<示衆>が執り行われたというのは例を見ません。禅師の飼い馬に対する深い愛情と惜別の気持ちの大きさを汲むことができます。 さらに愚堂東寔禅師は、慶安元年(1648)七十二歳で大仙寺に住していた際、村人が飼っていた馬の非業の死に困り巻き起こった祟りを除く為に、馬の弔いと供養の偈頌を唱えています。禅僧による動物の供養は、自らが飼育したペットに限らず、檀信徒の求めに応じても行なわれていたのです。 ほかにも虫に対しての供養が行なわれた例もあります。康応二年(1390)、東京の八王子に開創された廣園寺(南禅寺派)には、日本最古の虫供養の塔があります。文化十三年(1816)に発刊された『新編武蔵風土記稿』巻之百二上や、文政三年(1820)脱稿の『武蔵名勝図会』巻八には、供養塔が建立された経緯が次の如く記されています。 ある日、廣園寺の峻翁令山禅師の元に村の農民たちがやって来た。その者たちが言うには、虫の害によって稲や農作物が荒らされてしまい、困り果てているのでどうにか助けて欲しいと。そこで、禅師が虫除けの祈祷を行なったところ、虫害は収まった。害虫とは言え、生き物を殺生したことに心を痛めた村人たちは、廣園寺に虫供養の為の塚を建て葬ることとなったという。 以上、見てきたように祖師たちのペットや動物供養への真摯な態度は、動物を単に仏教的価値観に当てはめて、畜生道に落ちた存在として位置づけているようには見えません。確かに、白隠禅師を始めとした、仏教の輪廻観を前提とした教化・説示を行なっているわけですから、輪廻そのものを否定してはいません。日本における古来より動物の埋葬や葬送が行なわれてきた歴史を背景とし、「一切衆生悉有仏性」の思想を動物にまで敷衍させているのが、臨済宗のペットや動物の供養と言えます。 現代においては、「畜生」という表現に違和感を覚えるかも知れませんが、天倫楓隠禅師が『諸回向清規』を著した時代には、動物を表現する用語の中に現代のペットに当たるような適切な用語が無かった為、総じて「畜生」という言葉が使われたと考えられます。『諸回向清規』の中の「畜生通回向」や「畜生掩土茶毘回向」を見ると、 ・六道の幽迷を出でて清浄の覚路に至らんことを 「畜生通回向」 ・新たに浄域(浄土)に生まれ、早に覚岸に登らんことを 「畜生掩土茶毘回向」 とあります。先述のように、畜生道の存在はそこから一気に輪廻から脱することは不可能とされていますが、現在の臨済宗においては人間と同様に畜生道からの直接的な解脱をさせるように導きます。 |
これは東陽禅師の梨花に対する偈頌からも読み取れるように、祖師の間では動物も単なる「畜生」では無く、我々と同じく仏性を具えた「一切衆生」として見ていたのです。 |
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