他の法話へ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40
| 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60
| 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75

男 23,9 女 37,5 この数字が何か、おわかりになるでしょうか?。これは、樋口恵子さんという評論家の方が調べられた、昭和20年の平均寿命です。以前、新聞に出ておりました。

戦争が終わると、途端に数値が変わります。男 42,6歳 女51,1歳になりました。この数値を見ただけでも、戦争の悲惨さは痛いほどわかります。

鹿児島空港で売っていた本に、村永薫さんという方が編集された『知覧特別攻撃隊基地』というのと、知覧高等女学校の方々が見聞きした話や遺書等をまとめた『知覧特攻基地』というのがあります。この中に載っている遺書を紹介させていただきます。

最初は、相花信夫さんという18才の宮城県出身の方のものです。

母上、お元気ですか。長い間、本当にありがとうございました。
われ6才の時より育て下されし母。
継母とはいえ、世のこの種の母にあるごとき不祥事は一度たりとて無く、
慈しみ育て下されし母、ありがたき母、尊き母、俺は幸福であった。
ついに、最後までお母さんと呼ばざりし俺。
幾度か思い切って呼ばんとしたが、なんと意志薄弱な俺だったろう。
母上、お許し下さい。さぞ、寂しかったでしょう。
今こそ、大声で呼ばせていただきます。
お母さん、お母さん、お母さん。

と、ノート2ページに楷書で書いてありました。

この人の母は、生みの母ではなく、6才から育てられた継母であったというわけですが、世間でよくある差別や苛めにあったということはなく、可愛がってもらったというのです。何度も「お母さん」と呼ぼうとしたけれども、照れくさくて言えなかった、お母さんも聞きたかった筈ですが聞けなかった、でもまさに18才で出撃する、その遺書の中で「お母さん、お母さん」と呼びかけているのです。初めて「お母さん」と呼んでくれたのが、最後の言葉であったとは、何とも切ない話です。

次は、山下孝之さんという19才の熊本県出身の方です。5月25日の第五次総攻撃に出撃された方のものです。

只今、元気旺盛、出発時刻を待っております。
いよいよ、この世とお別れです。
お母さん、必ず立派に体当たり致します。
昭和20年5月25日午前8時、これが私が空母に突入する時です。
今日も飛行場まで、遠い所の人々が、
私たち特攻隊の為に慰問に来て下さいました。
ちょうど、お母さんのような人でした。
別れの時は、見えなくなるまで見送りました。
では、お母さん、私は笑って元気で行きます。
長い間、お世話になりました。
妙子姉さん、緑姉さん、武よ、元気で暮らして下さい。
お母さん、お体大切に。
私は最後にお母さんがいつも言われる念仏を称えながら、空母に突入します。
南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

この山下孝之さんという方のお母さんは、いつも念仏を称えておられたようです。自分が空母に突入する時に、お母さんがいつも称えていた「南無阿弥陀仏」を自分も称えれば、「極楽浄土で再会できるだろうか」という思いが、ひしひしと伝わってきます。

 こうした特攻隊の人達のお世話をされた方の中に、富屋食堂というのを営んでおられた鳥浜トメさんという方がおられました。 この方は平成4年4月24日に亡くなられました。

この鳥浜トメさんが書かれた中に、宮川三郎軍曹に関するものがありますので、最後にそれを紹介させて頂きます。

宮川三郎軍曹は、出撃の前夜、私のところに挨拶に来られ、
明日私は沖縄に行き、敵艦をやっつけてくるから、
帰って来た時には、「宮川帰って来たか」と喜んで下さい。
こう言ったんです。
「帰ってくる」と言うので、どんなにして帰って来るのと尋ねたら、
「螢になって帰って来る」と言うのです。
そしたら、約束の時刻に螢がやって来たのです。
富屋食堂の裏に小川が流れていたのですが、
そこに1匹の大きな螢がやって来て、白い花にとまったのです。
本当に大きな螢でした。
宮川サブちゃんだと思って、私はみんなに、
「この螢は、宮川サブちゃんですよ」と言ったんです。
そして、みんなでその螢を見ながら「同期の桜」を歌いました。

鳥浜トメさんは、こう記しています。そしてさらに、

どの子も、どの子も、みな極楽に行くような方だった。
皆が平和を願っていた。国難に際して身を投ずるけれども、
平和に暮らしてもらいたい。平和を願って、一身を捧げたのだ。

と記しています。

ここで言わんとするのは、特攻隊を美化するとかいうことでは、ありません。戦争がいかに悲惨なものであるか、今日の平和な日本の陰にいかに多くの犠牲が払われたかを再認識し、彼らが心から願った平和な時代に、私たちは生を受けていられることを感謝しなくてはなりません。選んだわけではないのに、平和な国の平和な時代に生を授かったことに感謝し、日本のみならず、世界中が平和で通れるように願わずにはいられません。これを発心と申します。この「みんな一緒に!」という願心を起こすことが、大切なのです。
他の法話へ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40
| 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | 46 | 47 | 48 | 49 | 50 | 51 | 52 | 53 | 54 | 55 | 56 | 57 | 58 | 59 | 60
| 61 | 62 | 63 | 64 | 65 | 66 | 67 | 68 | 69 | 70 | 71 | 72 | 73 | 74 | 75