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西田幾多郎(1870~1945)は、明治三年に加賀国河北郡森町(今のかほく市森)の西田得登、寅三夫妻の長男として生まれました。西田家は、江戸時代には十村と呼ばれる加賀藩の大庄屋でした。

しかし、彼が二十三才の時に父が事業に失敗して破産してしまいます。そこへ更に姉・弟・娘二人・長男が亡くなり、彼は途方にくれてしまいます。こうした中で、困窮・災厄・苦悩といった問題の根本に向けてでは無く、それらと直に向き合っている<自分の心>そのものに着眼するようになりました。

それまでの日本の哲学は、自分と他を対比させて考える西洋哲学を基盤に展開されてきました。これに対し、西田幾多郎は「哲学とは世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追究する学問であり、とらわれない目で事物を広く見るとともに、それを自己自身の問題として究極まで求めようとするものである」としています。「究極の根本原理を自己自身の問題として、とらわれない目で追究する」というところに、相対するものを一つとみる禅のとらえ方が感じられます。

西田幾多郎の禅体験は、彼が二十一才の時に鎌倉の円覚寺管長であった今北洪川老師への参禅から始まりました。その後、富山県高岡市の国泰寺の管長を退いて金沢の洗心庵におられた雪門玄松老師に参じました。二十九才の時、雪門老師から「寸心」の居士号を授かりました。さらに三十三才の時には大徳寺の広州宗澤老師(1839~1907)にも参じています。

こうした参禅体験を経た西田幾多郎は、
「禅を学の為になすは誤りなり。余が心の為、生命の為になすべし」
「学問は畢竟ライフの為なり、ライフが第一等の事なり、ライフなき学問は無用なり」
と、日記に綴っています。

そして、苦悩の多き実生活を乗り越えていく中で、
「わが心 深き底あり、 喜びも 憂ひの波も とどかじと思ふ」
という境地に至るのです。ここでいう「喜びも憂ひの波も届かぬ深き心の底」とは、何物にも執われることの無い《自分が無い》状態の心の働きに至った、ということなのです。

西田幾多郎は、晩年を鎌倉で過ごしました。丁度、第二次世界大戦の最中、昭和二十年六月七日に鎌倉の自宅で生涯を終えました。彼の遺骨は、臨済宗円覚寺派の鎌倉の東慶寺をはじめ、京都の大本山妙心寺の塔頭である霊雲院にも分骨されました。それは、若き日に妙心寺を散策した西田幾多郎が境内に響く黄鐘調の鐘の音に心を惹かれ、いつかはこの地を終の棲家にしたいと願われていたからと言われ、霊雲院の境内の南東角の黄鐘調の鐘楼堂のそばの隕石のお墓に、分骨されています。
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