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釈尊は、弟子たちに説法するにあたって、多くの比喩を用いていますが、イエスもまた比喩の名人であったようで、『新約聖書』には巧みな譬え話が出てきます。その『新約聖書』の中の「マタイによる福音書」(第二十章)に出てくる譬え話の一つに、「ぶどう園の労働者」を題材にしたものがあります。この一節は、「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で始まっています。

ぶどう園の主人(これが神)が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに広場に行きます。そして一日につき1デナリオンの賃金を払う約束で、労働者を雇います。1デナリオンがどれくらいの金額かはわかりませんが、彼にここでは1万円として考えてみましょう。

この主人はその後、午前九時頃にも広場に行って、労働者を雇ってきます。このときは、「ふさわしい賃金を払いましょう」と言い、金額は明示しません。

さらに主人は、正午頃と午後三時頃に広場に行き、労働者を雇ってきました。

その後、主人は午後五時頃にも広場に行きます。すると、まだ広場に立っている人々がいます。

「なぜ、一日中何もしないでここに立っているのですか?」と、主人は尋ねました。すると彼らは「誰も雇ってくれないのです。」と答えます。そこで主人はその人々を雇いました。

午後六時になりました。このぶどう園の主人は、五時頃雇ってきた最後の労働者から、順番に賃金を支払います。

五時頃雇われた人々に、主人は1デナリオンの賃金を払いました。

すると最初に雇われた人々は、自分たちはもっとたくさんもらえるだろうと期待します。しかし、彼らに支払われた賃金も1デナリオンでした。

そこで彼らは主人に、「最後に来たこの連中は、たった一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中と同じ扱いなのですか?」と、抗議します。すると主人は、「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは、私と1デナリオンの約束をしたではないですか。自分の分を受け取ってお帰りなさい。私は、この最後の人にも、あなたと同じように、支払ってあげたいのです。自分のものを、自分のしたいようにしてはいけないのですか。それとも、私の気前の良さが気にいらないのですか?」と、言いました。

以上のような話です。さあ、ここで考えてみましょう。

ぶどう園で働いた労働者のうち、午後五時に雇われた人は、一時間しか働いていません。たった一時間で、1デナリオン(1万円)を手にしました。一方、朝六時から夕方六時まで働いた人は、十二時間働いて1デナリオン(1万円)を手にしました。どちらが幸せでしょうか?。

このことについて尋ねてみると、多くの人は「どちらが幸せかと言われると、ちょっとわかりませんが、一時間で1デナリオン(1万円)もらった方が得をしていることは確かですから、その方が幸せなのでしょう」と、答えます。

こうしたものの考え方は、まさに日本人がエコノミック・アニマルと言われる由縁だと思います。現代の日本人の多くは、すべてを貨幣価値・経済価値に置き換えて、考えています。ですから、一時間で1デナリオン(1万円)もらえるならば、十二時間働いた人は十二デナリオン(十二万円)もらえて当然なのであって、それが1デナリオン(1万円)しかもらえなかったならば、それは損であり、逆に一時間で1デナリオン(1万円)もらった人は得しているという考え方をします。

しかし、本当に一時間で1デナリオン(1万円)もらった人が幸せでしょうか?。

一時間で1デナリオン(1万円)もらった人もまた、朝早くから、自分を雇ってくれる主人を求めて広場にいたのです。けれども、九時になっても、正午になっても、彼を雇ってくれる人は来ないのです。彼は半日の間、仕事にあぶれたのです。午後三時になっても、彼を雇う人は来ません。彼は心の中で泣いています。おなかを減らして、彼の帰りを待っている妻や子供のことを思うと、つらくてたまりません。どうしたものかと、茫然と広場に立っていました。

そして午後五時、奇跡的に彼を雇ってくれる人が現われました。とはいっても、残り時間は一時間しかありません。どれくらいの賃金をもらえるのかも、わかりません。でも、いくらかではあっても賃金をもらえるわけですから、助かります。

ところが、たった一時間しか働いていない彼に、主人は1デナリオン(1万円)もくれました。一日分の賃金をくれたのです。彼は感謝の気持ちで一杯です。もちろん、この人は幸せです。

しかし、この労働者は、たった一時間しか、安心して働いていないのです。早朝から午後五時まで、彼は不安な気持ちでじっと広場に立っていたのです。

一方、早朝から雇われた労働者は、その日1デナリオン(1万円)の賃金が得られる安心感を持って一日を過ごしたのです。「妻や子供に食べ物を買って帰れるぞ!」という気持ちで過ごした一日、働いているという充実感を持って過ごせた一日なのです。

どちらが幸せでしょうか?。あえて記すまでもありません。

仏教では、《二元観を捨てよ》と説いています。二つのものを対比するものの見方をしてはならないとしています。その点からすれば、こういう論理の展開の仕方は適切とは言えませんが、ここでは結果オーライの考え方を改めていただくために、敢えてこうしました。

イエスは幸せを測る物差しは、二通りあると言っています。【世間の物差し】と【神の物差し】です。

私たちは【世間の物差し】でもって、より多くの賃金をもらえる方が幸せだと、考えがちです。しかし、イエスは、幸せというものをそんな【世間の物差し】で測ってはいけないと、言っているのです。幸せは、【神の物差し】で測るべきだと、イエスは言っているのです。

仏教徒の私たちにとっては【仏の物差し】です。【仏の物差し】で測ってこそ、私たちにとっての≪真の幸せ≫とは何かがわかるのです。
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