ここ数年、毎日のように全国各地で凶悪犯罪が頻発し、マスコミをにぎわせております。毎年3万人以上の人が社会の裏側で自殺しており、その数は今後徐々に増加するであろうと言われています。最近はインターネットの普及により、1人では死ねない臆病者が集う自殺サイトまで登場する始末です。
こうした憂うべき現象は、日本のみならず、少子高齢化や核家族化の進んだ欧米諸国でも起こりつつあります。しかし、自律的な宗教心や個人主義が浸透している欧米諸国では、その動きは一部を除いて緩慢です。
これに対し、日本は戦後、官民一体となって復興に向けて邁進し、「寄らば大樹の陰」で日の丸親方庇護の下、心の拠り所を金品に求め、高度経済成長を成し遂げ、物質的な豊かさを享受して来ました。
しかしながら、バブルがはじけ、金の切れ目が縁の切れ目で、地域社会や家族・友人との連帯感が失われ誰にも頼れず、心の空洞化が表面化して孤独・孤立を余儀なくされています。しかも、現代の過酷な競争社会における所得格差や苛めが、これに拍車を掛けてきました。そこで、いわゆる負け組はそのウサ晴らしで、他虐的な凶悪犯罪を起こしたり、自虐的な自殺行為に走るようになったと思われます。
恐るるべきは、このまま凶悪犯罪や自殺行為が続発した場合に、その影響が近親者のみならず、無関係の人間にまで及ぶことです。実際、こうした兆候は大阪で起こった事件などに見られます。
ある若者は、次のような遺言を書き残してこの世を去りました。
もう疲れた
他人に疑われることも
他人を疑うことも
もっと いろんなことをやりたかった
でも もう疲れた
こんな弱い自分に 嫌気がさした
もっと強い自分に なりたかった
親を泣かせた自分が嫌いだ
死ぬのが怖い
罪は簡単に償えるものではない
もっと親父と 酒を飲みたかった
みんな ごめん
みんな 大好きだ
もっと一緒に 居たかった
強い心が 欲しかった
この青年のように、人生が思い通りにならず、誰も助けてくれる人も無く、生活に疲れ果てて絶望してしまい、生きる意味を見出せずに自らの命を絶ってしまう人の、いかに多いことでしょう。なかには、自分の命をまるで自己の所有物であるかのように考えている人さえいます。しかし、果たしてそうでしょうか?
私たちの命は、個々の所有物ではありません。私たちは、自分で選んで生まれて来たわけではありません。両親の出会いは言うには及ばず、幾多のご縁が重なって初めてこの世に生を受け、自分を取り巻く人々の深い慈しみのおかげで育まれ、大自然の多くの命の布施を戴いて、今日に至っているのです。
もしも、私たちの生まれた時代が戦時中でしたら、とっくに死んでいたでしょうし、仮に現代だったとしても、生まれた国が紛争だらけの国でしたら、いつ凶弾に倒れるとも限りません。よしんば、時間的・場所的に恵まれたとしても、肝心の自分の授かった姿が人間でなかったならば、儚く短い一生だったかも知れないのです。(時間・場所・存在の幸い)こう考えてみると、私たちが今こうして生きていられるというのは、すごくありがたいことなのです。私たちの命は、幾多のご縁が重なって宇宙自然から授かった尊いものなのです。せっかく授かった一度限りの尊い命を、自ら勝手に絶つなど、宇宙自然を冒涜する以外の何物でもありません。ましてや、他人の命を勝手に処分する権利など、どこにもありません。
かつては、こうした破壊的行為は「社会や家の恥さらし」という事前の抑止力が働いたものですが、地域社会や「いえ」制度の崩壊により、誰にも知られずに生活できることから、余程本人がしっかりしていないと、天涯孤独だと錯覚し、自堕落な生活に陥りやすいようです。しかし、それは甘えなのです。
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