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作詩 野口雨情



赤い靴 履いてた 女の子

異人さんに連れられて 行っちゃった



横浜の波止場から 船に乗って

異人さんに連れられて 行っちゃった



今では 青い目になっちゃって

異人さんのお国に いるんだろ



赤い靴 見るたび 考える

異人さんに会うたび 考える



この歌の女の子は、明治35年7月15日、日本平の麓の旧不二見村(現在の静岡市清水区)に生まれた子で、名前は《岩崎きみ》と言いました。母親の名前は《岩崎かよ》と言い、きみが生まれた当時18才でしたが、父親はわかりません。私生児だったのです。一説には、刑務所暮らしも経験した地元でも札付きの男だった、という話もあります。

母親《岩崎かよ》の両親はすでに亡く、かばってくれる身内も無い《かよ》は、周囲から<結婚前に子を生すふしだら娘>とか<極悪男のタネ>などという白い目に耐えかねて、幼い2才の《きみ》を抱いて津軽の海を越え北海道の玄関口、函館に移り住みました。

駅前の土産物店に勤めながら細々と《きみ》を育てていた《かよ》は、鈴木志郎という青年と知り合います。志郎は青森県鰺ヶ沢町の出身で、《かよ》より4つ年上でした。開拓の志を抱いて北海道に渡って来た志郎は、《かよ》に《きみ》がいることを承知の上で求婚しました。

彼は、社会主義とキリスト教の思想に支えられた<平民社>という結社に賛同していました。その志郎のもとに「新しい農場を切り開き、農場の基盤を作り出す平民農場開拓の一員として参加しないか?」という誘いがかかります。志郎はすぐさま、一行に加わる意思があることを表明しましたが、《かよ》は<ただでさえ雪深く寒さ厳しい未開の地で、しかも入植してから住む小屋を建てるのであり、水や電気はもちろん食料すらある保証は無い。狐や狼・熊などの猛獣との戦いも覚悟しなくてはならず、万一の場合でも医者などいない過酷な地へ幼い《きみ》を連れていって大丈夫なものだろうか?>と悩みました。

その最中、《かよ》は知人の紹介で、アメリカ人でメソジスト派の宣教師であるチャールズ・ヒューエット夫妻が養女を捜している、という話を聞きます。《かよ》は<この子の将来を考えたら、過酷な地で生きるか死ぬかと心配するより、立派な宣教師さまに育てられた方が幸せではなかろうか?。いや、そうに決まっている。明日はお願いにあがろう>と思いました。

キリスト教思想の流れを汲む「平民社」の志郎も、「《きみ》と別れることは辛いことだが、それはとても名誉なことだ」と賛成しました。ところが、《きみ》の愛らしい寝顔を見ると《かよ》は、<やっぱり手放せない。この子があまりにも不憫すぎる>と思いとどまります。しかし<幸せを考えたら……>と、堂々巡りでした。複雑な思いの中、開拓地への出発が迫り、《かよ》は泣く泣く宣教師夫妻に《きみ》を託したのです。つまり、

♪異人さんに連れられて 行っちゃった

わけです。



明治38年(1905)春、志郎と《かよ》は平民農場開拓団の一員として、夢の理想郷作りのため、北海道虻田郡真狩村(あぶたぐんまっかりむら)、現在の留寿都村(るすつむら)に入植しました。平成12年(2000)に噴火した有珠山に近い村です。

志郎も《かよ》も、その仲間たちも懸命に働きました。しかし、原始林に覆われた地での開拓は、想像を絶する厳しさでした。静岡から呼び寄せた《かよ》の弟、辰蔵は過酷な労働の中で病死してしまいました。開拓小屋も火事で失い、いくら努力しても成果どころか失うものばかりが大きく、精神的苦痛が増大して、わずか2年で夢の農場開拓団は解散しました。失意のうちに、志郎と《かよ》も札幌に引き揚げました。

苦労の末、志郎はやっとの思いで北鳴新聞という新聞社に就職します。たまたま、同じ頃の入社に野口雨情がいました。志郎と雨情は、一軒家を二家族で借りて同じ屋根の下で暮らしました。

《かよ》は、同居した雨情夫妻に《きみ》のことを話しました。おなかを痛め、泣く泣く手放した娘、今頃《きみ》はアメリカで幸せに暮らしているだろうか?。《かよ》の悲しい過去を聞いた雨情は、後になってこの「赤い靴」をしたためるのですが、《きみ》は異人さんに連れられて行っていなかったのです。

《かよ》と別れた《きみ》は、ヒュエット夫妻と幸せな暮らしを始めました。夫妻は、布教活動に励みながらも、不幸にも実の親と離ればなれに暮らさなくてはならなくなった《きみ》を、実の子のようにかわいがりました。

ところが、そんな中で《きみ》は、<不治の病>と言われた結核になってしまいます。結核に効く薬が発明されたのはずっと後になってからですから、当時はひたすら安静にしているしか治療法がありませんでした。

《きみ》が病床に伏している最中に、ヒュエット夫妻に帰国命令が出ました。しかし、すでに《きみ》の体は、アメリカまでの長い船旅に耐えられる状態ではありませんでした。わが子同様に育ててきた《きみ》を残して帰国することは忍びないと夫妻は困惑しましたが、帰国命令は絶対なのです。やむなく、夫妻は《きみ》を麻布十番にあった同じメソジスト派の孤児院(現在はここに十番稲荷が建てられている)に預けることにしたのです。

気の毒に二度までも親に捨てられた形になった《きみ》は、古い木造の二階の片隅の部屋で懸命に病魔と闘いましたが、病状は一向に回復せず咳と高熱にうなされながら

♪横浜の波止場から 船に……

乗ることもなく、わずか9才で寂しく命を閉じていたのです。時に明治44年(1911)9月15日のことでした。




これらのことが判明したのは、当時北海道テレビの記者兼プロデューサーであった菊池寛氏(後の常務取締役)によって『赤い靴はいてた女の子』の本が出版され、ドキュメント番組として放映されたからです。この放映がきっかけとなり、昭和54年(1979)11月に横浜港を眺める山下公園に像が建てられ、更には昭和61年(1986)、生誕地である日本平山頂にも、《きみ》と《かよ》の像が建てられたのです。

また、《きみ》が亡くなった麻布十番の商店街には、平成元年(1989)に《きみ》の像が建てられましたが、除幕式の行なわれた日の夕方以後、ずっと《きみ》の像の足下に硬貨が供えられ続け、お供えされたお金は毎年ユニセフに全額寄付され、世界の恵まれない子供たちのために使われています。
《かよ》が入植した北海道留寿都村には、赤い靴公園が造られ、《かよ》の像と《きみ》の像が仲良く並んでいます。

やっと再会出来た母と娘、これからはずっと一緒にいてほしいと願うのは、この物語を知った人々全員の願いと言えるのではないでしょうか。
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