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釈尊は、《もろもろの苦しみは、私たちの煩悩(欲望)が原因となって、生じている》と、説かれました。つまり、私たちの煩悩(欲望)が苦しみを生み出している、というのです。 確かに、私たちの生活は、惜しい・欲しいの連続です。日本人の欲を満たそうと、科学技術はめざましい進歩を遂げ、おかげで私たち日本人は、高度の文化生活ができるようになりました。 しかし、その反面、大気汚染や水質汚濁、地球温暖化などをはじめとする多くの公害が生じ、将来に不安を抱かせる結果となっています。たとえ、動機は純粋なものであったとしても、制止できないと不幸な結論を招くのです。 おまけに、人間の欲望はとどまる所を知りません。さすがの科学技術も、追いつくことは不可能ですから、満たされ得ない部分ができます。すると、そこに新たな欲望が生じるのです。 一例を挙げれば、「老・病・死」は、どんな人も免れ得ない現実です。どんなに立派な人も、これだけは避けられません。にもかかわらず、それとは逆の「いつまでも若くありたい」「病気になりたくない」「死にたくない」といった欲望が、生じます。けれども、絶対に手に入らないものを、何としてでも手に入れたい!と欲を起こすのは、明らかに道理に背くことなのですから、誤っています。 この誤りに気がついて、「老・病・死」に苦しむことの無い、「老・病・死」を超越した境地に至ることが、大切です。ただ、ここで言う「老・病・死」を超越するというのは観念的に「老・病・死」を越えることでは、ありません。 たとえて言えば、馬術競技の障害物競走のように、障害物に触れることなく、乗り越えられるものではない、ということです。むしろ、子供たちがよくやっている、馬跳びのような越え方です。馬跳びは、助走の勢いと、前かがみになっている子の背中に手をついた反動で、跳び越えるものです。この点が、馬術競技の障害物競争とは、異なります。 つまり、「老・病・死」の現実に、ぴったりと手をついて乗り越えるのです。これを、禅宗では「老・病・死」に【なりきる】とか【徹する】と、言います。「老・病・死」に【なりきる】とか【徹する】というのは、若さや健康を他者と比べるのではなく、自分の与えられた状態をひたむきに見つめ、脇目を振らずに生きていくことなのです。 老いた時の老人の生き方、病める時の病人の生き方、死に際しては臨終のあり方を示したのが釈尊です。この正しい教えを学び、それが身に付いてくると、老人も病人も逆境にある人も、みんな明るくなり、本人のみならず、周囲の人をも明るくします。 私たちの人生は、無限の苦に満ちています。しかし、真っ只中にいながらも意欲的かつ積極的に生きる人の生涯は、輝いています。これをシナリオ作家の松山善三さんは、「青カビのような凄艶な輝きに満ちている」と、表現しています。 兵庫県伊丹市に住む古結芳子さん(五五歳)は、膠原病の多発性筋炎を実に二十年以上も患っている主婦です。彼女の闘病精神を育てたのは、無心に咲く一輪の路傍の花です。名も知られない小さな一輪の花が、排ガスだらけの道端で、懸命に花を咲かせているのを見て、《この花のように、難病を恐れず、ひたむきに生きてみよう》と、思ったそうです 彼女が、膠原病になって、まず気がついたのは、膠原病の患者がいかに大勢いるか、ということです。そして、膠原病がいかに辛い病気かを実感した!、と言います。しかし、彼女は、病気に屈することなく、《膠原病にかかった御縁で、健常者には絶対わからない病人の生きがいが見出せたなら、私の人生は凄く実り豊かなものになろう。たとえ、病気は治らなくても、生きていて良かったと、心の安らぎが得られるやろう》と、考えます。 そして、《自分の心が安らかになれたなら、同病の人たちも、気力と希望を持っていただけるやろう》と考え、読書や聴聞によって精神的栄養をとると共に、肉体を強くすることに努力します。両方の股関節に挿入されている人工骨頭の維持には、水泳が良い!と、医師に勧められ、水泳の初歩から習って、十四年目の平成八年には、ジャパン・パラリンピックで金メダルを獲得しました。 |
古結芳子さんは、「膠原病からくる体の痛みは、年々増します。しかし、この痛みを包む喜びも、一年一年深まります」と、言っています。自分の《あるべきよう》《進むべき道》をまっしぐらに進む人には、苦悩にありながらも、苦悩が自然に解けるものなのです。 何ごとも 修行と思い する人は 身の苦しみは 消え果つるなり 至道無難禅師(一六〇三~一六七六)の歌 |
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