「今日学ばずして、来日ありと言う勿れ」と言います。これは、中国の南宋時代の有名な儒学者である朱熹(しゅき・1130〜1200)の言葉で、「今日勉強しないでいて、来日(明日)にしようと先送りしてはならない」という教えです。
朱熹を敬称で朱子と呼び、彼が完成した儒教(孔子の教え)の学派を「朱子学」といいます。儒教にはいくつかの学派があり、王陽明(1472〜1528)の陽明学も、その一つです。中国では歴代王朝が朱子学を奨励し、日本でも江戸幕府が朱子学を儒学の正統として重んじました。
人間は誰でも、学問や仕事に疲れると、つい「明日にしよう」と先延ばしにしがちです。
しかし、釈尊や孔子をはじめ、多くの聖人が「明日を頼んで今日を怠ける生き方、正しくない」と説いています。
この世の移り変わりは激しく、明日のことは誰にも予期できません。これを【淵瀬】と言います。この語は『古今和歌集』の
世の中は 何か常なる 飛鳥川
昨日の淵ぞ 今日は瀬になる
からきています。昨日の飛鳥川は澱んでしまって深い淵だったのが、今日はうって変わって歩いて渡れるような浅い瀬になっている、というのです。つまり、この世で変わらぬものは何一つ無いというのです。
釈尊は「今日はなすべきことを明日に延ばさず、確実に行じていくことが、好き1日を生きる道である」と教えています。一日一日の積み重ねが一生になるわけですから、自分の授かった寿命を真に全うするためには、たとえ一日といえども、おろそかにしてはならないというのです。
私の師匠で平成10年に遷化された自春見老師は、常々
「わしは、死ぬまでに一辺でいいから『今日は百点満点じゃった』と言える日を過ごしたいと思って、毎日精進しているつもりだが、これがなかなか難しい。『九十九点ぐらいまではいったかな?』と思う日はあるんだが、『百点満点』は一度も無いんじゃ。生きる(活きる)ということは難しいな」
と言われていました。
一生は一日一日の積み重ねであり、一日は一つ一つの事柄の積み重ねなわけですから、一日の間になさねばならない事柄をすべてきっちりと行い、それが継続されてこそ、充実した一生になるのです。しかし、その基本となる一日でさえも「『百点満点』で過ごすのは、難しい」と言うのです。
自春見老師は、阪神間の名刹である海清寺専門道場で、若手の雲水(修行僧)を指導するかたわら、居士・大師(在家修行者の男・女)の教化にも、非常に熱心でした。毎日、朝は4時に起き、夜は12時頃まで高齢(世寿93)でありながら、頑張ってこられました。一般家庭ならば、隠居して悠々自適の生活の年代です。それを、88歳で大本山妙心寺の管長を辞した後も専門道場の老師として復帰され、平成10年10月17日、現職のまま93歳で遷化されました。
《これ以上、どうしろと言うのか?》と思えるような生活でした。しかし、自ら「『百点満点』の日は無い」と言われていました。それは、「諸行無常の世においては、今日という日を力一杯精進しなくては駄目だ。常に、自分を厳しく見つめて生きなくてはならない」ということを諭しておられたのです。
江戸時代初期の茶人で、茶の湯を大成した千利休の孫の千宗旦は、あるとき自ら創意工夫を凝らして新しい茶室を建てました。この茶室は、畳二畳大のもので、茶室としては最小限のものでした。中は床も設けずに、壁面でそれに代えたという、ぎりぎりに詰めてあるところに、侘び茶人の宗旦の心根が偲ばれます。
ある時、彼はこの茶室の命名を、日頃尊敬する大徳寺の清厳和尚にお願いしようと思い、その旨を伝えて和尚を招待しました。ところが、当日約束の刻限が来ても、和尚は現れません。困ったことに宗旦は、その日もう一つ大事な急用が生じ、和尚の接待が済んだら外出することにしていました。時間は刻々と過ぎて、ついに出かけねばならなくなりました。
そこで、宗旦はやむなく弟子に
「もし、和尚さまがお見えになったら、今日の事情をよくお話して、明日もう一度お出かけいただくようにお願い申し上げておくれ」
と言伝して出かけました。
ところが、宗旦が出かけたのと入れ違いに、清厳和尚がやって来ました。和尚は弟子から宗旦の言伝を聞きましたが、せっかく来たのだから新しい茶室を拝見したいと頼みました。
そして茶室を見た後、そこの腰張りに
「懈怠比丘 不期明日」
と書き残して帰りました。《懈怠の比丘》とは「怠け者の僧」という意味で、時刻に遅れた自分を謙遜して呼んだものです。つまり、
「私たちには、明日ことはわかりませんので、お約束は致しかねます。」
という意味です。
帰宅し、茶心の腰張りにしたためられた書を見た宗旦は、冷水を浴びせられたような思いがしました。なぜなら、明日はおろか一分一秒先もかわらないのが人生なのに、平気で明日のことを約束する自分の曖昧な生き方を深く恥じたのです。茶を学びながら、茶の心の会得していない未熟な自分に気づき、すぐに大徳寺に清厳和尚を訪ねました。
そして、「明日を期せず」の清厳和尚の教示に開眼した自分の境地を
今日今日と 言いてその日を 暮らしぬる
明日のいのちは、とにもかくにも
と呈しました。
この一首は、「明日の命があるかどうかもわからないのに、大切な《今》をおろそかにして、あてにならない明日を期待するのは、愚かなことでございました」という心が込められています。
宗旦は、清厳和尚の教示に感激して、この新茶室を「今日庵」と名づけ、さらに隠居後は自ら「今日庵咄斎」と称しました。以来「今日庵」は裏千家の庵名になっています。しかし、当時の「今日庵」は、天明8年(1788)1月晦日の京都の大火で、御所や二条城とともに焼失、現在の「今日庵」はその後の復興によるものです。したがって、清厳和尚の腰張りの文字も、今は見ることができません。
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