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道徳と宗教とは、全く違うものです。しかし、どうも混同されているのが現状です。今回は、道徳と宗教の違いについて認識して頂きたいと思います。 道徳と宗教は、どう違うのでしょうか? たとえば、満員電車の中で自分は座っていたとします。そこへ老人が乗ってきて、席を譲る時、 【お年寄りが気の毒だから、座らせてあげる】 というのが道徳で、 【お年寄りに座っていただいた方が気持ちが良いから座ってもらう】 というのが宗教です。 何だ、どっちだって同じようなものじゃないかと思ってはいけません。問題としているところが、違うのです。 道徳は、その人の行動でもって善悪を判断します。ですから、 「なんだ、この糞爺いめ。年寄りは暇なんだから、もっとすいてる電車に乗れよ!そんな座りたそうな顔をして、俺の前に立つなよ。たく、もう、しょうがねえなあ。糞ったれ、代わってやらあ」と、心の中で悪態をついても、譲った人は善い人ということになります。 これに対して宗教では、心の中が大事だとしています。相手を軽蔑しながら席を譲ったとしても、それは尊い行ないではないとしています。【お座りいただいて、ありがとうございました→おかげさまで徳を一つ積ませていただけました】という謙虚な心持ちでしなくては、尊い行ないではないというのが宗教のものの見方です。 このように道徳と宗教は、はっきりと違うものなのです。それが、混同されるようになった原因は何かというと、儒教なのです。儒教は、儒学とも言われるもので、本来は政治家が学ぶべき道徳なのであって、(宗教のようにも思えますが……)宗教ではありません。それを、当時の日本人は宗教と勘違いしたものですから、道徳と宗教が混同されるようになったのです。 儒教の基本聖典の一つである『礼記(らいき)』の中に |
という言葉があります。「礼は庶人に下らず」というのは、《礼儀作法は、庶民には要求しない》というものです。つまり、《庶民には礼儀作法は要求されない》というのです。これを誤って<庶民は別段、礼儀作法を守る必要はない>と言っている学者がいますが、【要求しない】のと【守る必要はない】というのは違います。 <庶民は何をしてもいいのか>というと、そうではありません。庶民には、礼儀作法は要求されない代わりに、刑が執行されます。たとえば、立ち小便をするなとか、ゴミを捨てるなといったマナーは、特に要求されません。その代わり、庶民に立ち小便をさせない、あるいはゴミを捨てさせないために、為政者は法を定め、その法を破った者に対して、刑すなわち罰を課するのです。立ち小便をした者には3万円の罰金を科する、あるいはゴミを捨てた者には5万円の罰金を科するといったように法を定めておいて、これを破った者には罰金を取り立てるというのが、儒教の考え方です。 これに対し、庶人でない者、すなわち士大夫(したいふ)階級の人間には、刑は適用しません。それが「刑は太夫に上せず」です。つまり、《士大夫階級の人間には刑は適用されない代わりに礼儀作法が要求される》のです。 こう言うと、<なんだ礼を守ってさえいれば良いなら、簡単じゃないか>と思われそうですが、それは考えが甘いのです。確かに、彼らには刑が適用されないのですから、罪を犯しても罰されることはありません。ならば、<したい放題か>というと、そうではありません。士大夫階級の場合には、もっと厳しいのです。 陳 舜臣氏によると、士大夫に犯罪の疑いがある時には、勅使(ちょくし)がやって来て、廷尉(ていい/裁判官)の所に出頭せよと命じます。この時、勅使は「酖(ちん)」という毒の入った酒を持参します。つまり、高級官僚は疑われただけで自殺することが義務づけられていたのです。これが、「刑は太夫に上せず」の真意です。それだけエリートは厳しく礼を守らなくては、ならなかったのです。 士大夫階級に対するこうした厳しい道徳を説くのが、儒教です。 しかし、人間は完璧ではありません。謀略にはまることもあれば、予期せぬ急激な変化に対応しきれず、罪を犯してしまうこともあります。けれども、たとえそうであったとしても、儒教では許されません。ここが仏教との最大の相違点です。 仏教では、戒(かい)を破って罪を犯しても心から懺悔(ざんげ)すれば許されるのです。仏教における戒は、それを破った者を断罪するためにあるのではありません。罪を犯したことを糾弾(きゅうだん)し、責めるのは道徳なのであり、儒教の考え方なのです。 すべての生きとし生ける者は、どんなに努力しても戒を完全に守りきることは、不可能なのです。にもかかわらず、仏教において多くの戒が定められているのは、各人がその戒を守りきれない自分の弱さを知るためなのです。そして、自分同様に他者もまた弱い存在であることを知り、他者の過ちを許す心を持ち、他者にも戒を破らせないような生き方をすることが大切なのです。 互いの弱さを知り、罪は罪として認め、その反省の心を理想に向かって進む原動力としなくてはなりません。つまり、大切なのは結果ではなく、目の前の【今を正しく生きる】ことなのです。罪を犯すたびに深く反省し、過ちを繰り返さないように努めることが大切なのです。 ドイツの文豪 ゲーテは、 |
と言っています。迷いながらも努力をすることが大切なのです。 参考文献 『元号の還暦−三燈随筆(一)』 陳 舜臣 著 中央公論社 刊 |
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