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他人の為に貴重な時間をさいて何かをするということは、素晴らしいことです。自分の為(自分が楽しい、あるいは得する)なら小学生でもやりますが、他人の為にはなかなかできないものです。

こういうと「他人のことなんて構うてられへん」「自分のことだけで精一杯や」と言う人がいます。しかし、それは間違っています。なぜなら私たちは皆、お互いにつながり関わり合って生きているからなのです。

人間に限らず、存在するものは全て互いに深く関わり合い、そのおかげで現在の状態があるのです。にもかかわらずその関わりを遮断することは、その存在そのものを否定することになるのです。

他人がどんなに困っていようと、生きようと死のうと私の知ったことではない、と言う人がいますが、それはいささか「器の小さい人間」と言わざるを得ません。私たちの先祖は、ときには仲間同士で喧嘩することがあっても、深いところでの繋がりを意識して助け合って生きてきました。お互いに、助けても恩に着せず、淡々と「良かれという一念」で行ってきました。それが人間を育ててきたのです。

特に第一次産業と言われる農業・林業・漁業といった分野では、この助け合いが無ければ成り立ちませんでした。自分一人の試行錯誤ではロスが多く、仲間の経験を教えてもらうことによって格段の進歩を遂げてきたのです。

助け合いの精神の素晴らしさは、それが自然の営みとして行われてきたからなのです。もしもこれが恩を着せたり恩を売ったりするものであったなら、それだけで嫌になりますが、善業をなしてもそれを誇らないところに尊さがあるのです。私たちは他人に何かしてあげると、すぐそのことに捉われる傾向があります。見返りを期待したり、お礼を望んだりする心があるから、自由になれないのです。この卑しい心が、せっかく積んだ善い行いを台無しにしてしまうのです。人は、他人にしてもらったことはすぐに忘れ、自分がしたことはいつまでも覚えている、まことに厄介な生き物です。

ずいぶん昔ですが、三國連太郎が出演した『善魔』という映画がありました。悪魔ならわかりますが、善魔とは一体何なのか、言うまでもなく、善の裏に潜む魔性のことです。善という仮面をかぶっていながら、内面には魔性をいっぱい抱えている状態です。これはいわゆる悪魔よりも始末が悪く、見方によっては人間そのものの姿を言い当てているようにも思えます。

私が善だ、正義だ、賢いなどと主張すると、そこには必ず争いが生まれます。なぜなら私の善を、他人が必ずしも善と認めるとは限らないからなのです。私の正義は、あなたにとっては正義ではない場合も、多々あるのです。このことを自覚しないと争いは限りなく続きます。

しかし、このことを自覚すると心の世界が開けてきます。他を認める余裕が生じてくるので、そこに争いはありません。

人は皆、平和を望んでいると言われます。けれども、現実には平和を望まない人もいます。彼らは常に、自分たちが利益を得るために戦争を起こすことを考えています。恐ろしいことです。

20世紀は「戦争の世紀」を言われました。正義のため、自衛のためと言って、世界中で大小250の戦争が繰り返され、およそ2億人が亡くなったとされています。

釈尊は「殺生をしてはならない、させてはならない」と戦いの悲惨さを説き、キリストは「汝殺すことなかれ」と説きました。しかし、仏教者もキリスト教者も、かつて戦争に加担してきた歴史を持っています。

そこで最も考えなくてはならないのは、過去の罪責をどのように考え、克服していくかということなのではないでしょうか。反省という営みによって、過去の過ちが清められるわけではありませんが、過去から学ばなければまた同じ過ちを繰り返すばかりです。未来は、過去から学んだ量に因って決まるのです。

善いことをしてもそれに執われず、むしろさせて頂けるチャンスを授かれたことに深い感謝の念を持続させるところに、真の喜びがあるのです。手を差し伸べた人が、支援を受けた人に感謝をする。してあげたという傲慢なものではなく、させてもらえたことを喜び且つしたことにこだわりがないのが【喜捨】なのです。
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