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 『宝物集(ほうぶつしゅう)』という本があります。この本の著者である平康頼という人は、平家討伐の密談が発覚して俊寛僧都(しゅんかんそうづ)とともに鬼界ケ島に流された鹿ケ谷(ししがたに)事件の一味で、流人の苦汁を嘗めた人です。3年後、許されて都に帰った時には、それまでの栄華は夢と消えていました。頂点に昇りつめようとしたら、逆に谷底に落ちてしまったわけです。

 彼は俗世に見切りをつけ、出家して後、この『宝物集』を書いたとされています。この中では、人生で一番の宝は何かということが論じられています。

 舞台は嵯峨の清涼寺、俗にいう嵯峨の釈迦堂です。大勢の人が集まる中で、「この世で一番の宝物は何か?」ということが議論になっているのです。

 その中の一人が、
 「そら、隠れ蓑(みの)さ。なぜなら、これを身に着ければ自分の姿は他人に見えへんのやから、どこへでも自由に入って行ける。よその蔵からお宝だって頂戴できるし、うまい料理かて失敬できる。逢引だって首尾ようできる」
 と言うと、それを疑問視した意見が出るのです。

 「隠れ蓑は使って便利かも知れんが、所詮泥棒行為やで!。それが人生の第一の宝やろうか?。人の目を掠(かす)めることなく意のままになると言えば、やはり打出(うちで)の小槌(こづち)やで。欲しいものは何でも手に入るんや!。他人のものを奪い取ることなく、自然に自分のものになるんやから、こないええことあらへんで」
 すると、また異を唱える者が出るのです。

 「打出の小槌は、思いのままにものを出すことができるには違いないけれども、鐘の音がすると、たちどころに消えてまうと言うやないか!。それにその小槌を見た者は、いまだかつておらんやないか?。それやったら、宝やとは言えんで」

 次には、第一の宝はお金やという人が出ます。何しろ<地獄の沙汰も金次第>というくらいやから、宝としては一番や、と言います。ところが、お金というのは功罪半ばして、あればこんなにいいものはないけれども、そのために親兄弟の仲が悪くなることもあるのです。

 では、子供はどうやと言う人が出ます。<子宝>と言うやないかと言い出します。しかし、これも一長一短あるのです。確かに、親にとって子があることは大変嬉しいことなのですが、子に先立たれる不幸というのもあるのです。

 こうして、いろいろ意見が出るのですが、必ずそれらは良い面と共に悪い面も付随していて、完全には満足し得ないのです。そこで、最後に<仏法こそが第一の宝>だ、ということに落ち着きます。つまり、世間で大切だとされているものは功罪半ばして、幸せになる反面不幸せにもなるのだから、何よりも尊いものは世俗を越えた仏法だ、というのが『宝物集』なのです。
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