釈尊は、私たち人間には決して避けられない苦しみが四つある、と示されました。これが《生・老・病・死》の【四苦】です。このうち、《老・病・死》が苦しみなのは分かりますが、なにゆえ《生》が苦しみなのでしょうか?。それは、思い通りには生きられないからなのです。一番最たるものは、寿命です。好きなだけ生きられたら良さそうなもんですが、そうはいきません。嫌や思うても、迎えが来れば行かなあきません。
江戸時代の戯れ歌に、「幸せは、いつも三月花の頃 お前十九でわしゃ二十歳 死なぬ子三人親孝行 使って減らぬ金百両 死んでも命がありますように」というのがありますが、人の思いとは勝手なものです。
現実はそうはいきません。思いのままに、ならないことだらけです。生まれた時代・国・性別・家庭環境など、どれをとっても自分で選んで決めたものは一つも無いのです。もっと根本的なことから申し上げれば、人間に生まれたこと自体、すでに恵まれているのです。一つ間違えば、蜘蛛や蛙だったかも知れないのです。
おまけに私たちは生まれ落ちたその瞬間から、徐々に老い衰えていくわけですし、病も避けることはできません。そして、やがて訪れる死が思い通りにならないことは、誰もが知っています。生老病死という根源的な問題ですら、私たちはどうすることもできないのです。
〈自分の力では、どうすることもできないものがある〉〈自分の力なんて、如何に小さなものか〉。このことを心底知らなければ、仏に帰依することは難しいのでしょうか。昔の人は、このことがよくわかってらしたように思います。現代人は、高度な文明が発達し物質的には豊かになった反面、いつの間にか傲慢になり、このことを忘れてしまったことが一番の不幸なのかも知れません。
人間は一人で暮らすことはできても、一人で生きていくことはできません。現代の日本は物が溢れていますが、人と人の絆を保たなければ、社会生活は成り立ちません。私たちは、「大いなる恵み」を授かりながら、お互いが生かされていることに気付き、そのことに感謝の念を抱くことが大切なのです。
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