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 そもそも「幸せというのはどういう状態だろうか」と考えてみると、これが人によって千差万別なのです。「これが幸せだ」という「これ」という対象は、全く個人的なことでしかありません。

 ある人は、朝起きて静かなたたずまいの中で一服のお茶を飲む時、何とも言えない幸せな気持ちになると言いますし、また学生だったら、目指す大学に合格できたならば、受験勉強の苦しみも途端に喜びに変わって、幸せな気持ちになるでしょう。しかし、それも状況によって変わってくるものなのです。

 もしも自分と同じ学校から受験し、発表も一緒に見に行った、普段から仲の良い友達が落ちて、自分は受かったとしたら、果たして幸せな気分でいられるでしょうか?また、自分が苦労してやっと完成した作品が、誰も評価してくれなかったら、果たして満足していられるでしょうか。

 現在、世界有数の名画として評価されているゴッホやモジリアニの絵は、彼らが生きているうちは全く評価されませんでした。モジリアニは一食の糧を得る為に、わずかのお金と引き換えに作品を売ろうとしましたが誰にも見向きもされず、ゴッホに至っては生前売れた絵は、たったの一枚でした。彼らは、現在の評価とは裏腹に、不遇の中で死んでいったのです。したがって、安心も満足もまわりの評価も無いままに死んでいったのですから、彼らの人生は幸福だったとは、とても言えません。

 ささやかであれ何であれ、私たちは「こうなったら」「ああなったら」という願望のために努力をし、その願望が叶ったならば、「ああ、よかった」と喜び、幸せな気分になります。しかし、その喜びも月日がたつにつれ、何の変哲も無いこととなってしまうものです。これが《慣れ》なのです。幸福感は持続しないのです。

 さらにまた、努力の成果・希望の結実に対して、相対評価する意識が芽生えてくると素直に幸せだとは思えなくなってしまいます。たとえば、マイホームを建てたいと思い、長年努力してやっと新築したとします。マイホームを建てるのは並大抵のことではありませんから、実現できたならば満足度もかなり高いはずです。ところが、同僚が自分よりもさらに立派な家を築いたとしたら、内心穏やかではありません。どちらが良いか悪いか見定めて、自分の方が良くないと満足できないのが現実です。そこには常に我執(がしゅう)がつきまとっています。

 せっかく得た幸せも、月日とともにマンネリ化したり、比較したばかりに満足できず「まだまだ、足りない」と不満を抱いたりして、われわれ凡人は「これでよし!」という思いには、なかなかたどり着けません。

 私たちは、無常であるこの世に生まれているのです。にもかかわらず、その中で自分の思いを実現しようとします。目標を持って努力することは結構なことですが、それにこだわると幸せにはなれません。こだわるということは、無常の世にありながら「常であれ」と願うことなのです。この幸福に対する視点を変えない限り、幸福を追求すればするほど、不幸が増大する結果になりかねません。つまり、欲望・願望にとらわれていては、幸福にはなれないのです。
 『法句経(ほっくきょう)』に【なにものも《自分のものではない》と知るのが智慧である】とありますが、物事をありのままに見れば、自分のものなど何も無いのです。もっと言えば、《自分すら無い》のであり、これを《無我》と言います。自己所有という面からすれば、この世において「我が物」といえるものは一切無いし、自分自身すら無いのですから、「我が物」と思って自由にしようとすることのほうがおかしいのです。

 また、永続を願うという時間的な面から見ると《無常》なのです。目の前に存在するものは、何であろうと永久不変のものはありません。常に移りゆくのです。望ましい方向に変わっていくこともありますが、望まない方向へ変わっていくことも多々あります。

 つまり、この《無我・無常》が、この世のありのままの姿なのです。にもかかわらず、「我が物」に固執したり、常に「我が物」であれとこだわって、それが幸福なのだと錯覚したのでは、かえって苦の種になってしまうのです。

 般若心経の一節に
 という所があります。これは《心の中に煩悩や妄想が無く、煩悩や妄想が無ければ恐怖や不安も無く、一切の煩悩・邪見等のさかしまな考えを離れ、悟りの境地を究めることができる(心は安らかだ)》という意味なのです。

 私たちは、まともに物事を見ているように自分では思っていても、実はそれは顛倒(てんとう)した見方や妄想であって、ありのままに見てはいないのです。つまり、色つきメガネで見ているだけのことなのです。このことを自覚して一切の執着を離れたならば、そこが悟りの境地なのです。そして悟りの境地に到ったならば煩悩・妄想は無いわけですから、現在のありのままで十分幸せだという、すなわち「当処すなわち蓮華国」という境地になれるのです。
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